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2023年1月21日『儺の國の星』,『儺の國の星拾遺』,メモ

 筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の士族(*ママ)であった。地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている。察するに本来は〝つくし〟であったらしいが、太宰府なる万人往来の国際都市が、神功皇后二十三 (二二三)年以来連綿として隋(五八一~ ...

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『儺の國の星』,『儺の國の星拾遺』,Duhr,中轅星

博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。〝とふ〟とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。〝ろう〟はrych(リ ク)、即ち湊の管理総帥の ...

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水城

水城は大宰府防衛のため築造したとされる土塁だ。

この水城の西方から大野城市・春日市にかけての丘陵地帯にも小規模な土塁群があり、〝小水城〟と呼ばれている。
 
小水城は今のところ推定地を含めて6ヶ所で、そのう ...