筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の氏族 地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている
筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の士族(*ママ)であった。地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている。察するに本来は〝つくし〟であったらしいが、太宰府なる万人往来の国際都市が、神功皇后二十三 (二二三)年以来連綿として隋(五八一~ ...
博多の人は太宰府よりもむしろ都府楼の言葉を口にする
博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。〝とふ〟とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。〝ろう〟はrych(リ ク)、即ち湊の管理総帥の ...
小水城は今のところ推定地を含めて6ヶ所
水城は大宰府防衛のため築造したとされる土塁だ。
この水城の西方から大野城市・春日市にかけての丘陵地帯にも小規模な土塁群があり、〝小水城〟と呼ばれている。
小水城は今のところ推定地を含めて6ヶ所で、そのう ...