萬葉集は八百萬 の青人草 の謡 の集大成

大伴家持(七一八~七八五)が、太宰権帥(だざいごんのそつ)大伴旅人(六六五~七三一)と共に筑紫に在ったのは養老四(七二〇)年から天平二(七三〇)年の間であった。
萬葉集二十巻を編簒したのは大伴家持と伝えられている。萬葉なる家 ...
筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の氏族 地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている

筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の士族(*ママ)であった。地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている。察するに本来は〝つくし〟であったらしいが、太宰府なる万人往来の国際都市が、神功皇后二十三 (二二三)年以来連綿として隋(五八一~ ...
博多の人は太宰府よりもむしろ都府楼の言葉を口にする

博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。〝とふ〟とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。〝ろう〟はrych(リ ク)、即ち湊の管理総帥の ...