『儺の國の星』復刻版第2版 『儺の國の星 拾遺』第2版

『儺の國の星』復刻版第2版と『儺の國の星 拾遺』第2版が那珂川市より出ている。
第二版は用紙が変わり厚みが増し、表紙も簡易になっていた。
奥付。
郵送にも対応されている。
興味のある方は那珂 ...
中臣氏-それは欧亜を往来する民族が漢人に長く同化した系統かもしれない

昔、天山南路の中に鄯善(ぜんぜん)(前一三九~後六三五)なる國が栄えた。隊商の憩う街であった。
欧亜を往来する民族を単于(せんう)という。後にこれが極東に定着する頃は燕(前一一二二~二二二)の世に入ってからのことであった。 ...
萬葉集は八百萬 の青人草 の謡 の集大成

大伴家持(七一八~七八五)が、太宰権帥(だざいごんのそつ)大伴旅人(六六五~七三一)と共に筑紫に在ったのは養老四(七二〇)年から天平二(七三〇)年の間であった。
萬葉集二十巻を編簒したのは大伴家持と伝えられている。萬葉なる家 ...
筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の氏族 地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている

筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の士族(*ママ)であった。地元は今に至るまで筑紫を守っている。察するに本来は〝つくし〟であったらしいが、太宰府なる万人往来の国際都市が、神功皇后二十三 (二二三)年以来連綿として隋(五八一~六一七 ...
博多の人は太宰府よりもむしろ都府楼の言葉を口にする

博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。〝とふ〟とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。〝ろう〟はrych(リ ク)、即ち湊の管理総帥の ...
小水城は今のところ推定地を含めて6ヶ所

水城は大宰府防衛のため築造したとされる土塁だ。
この水城の西方から大野城市・春日市にかけての丘陵地帯にも小規模な土塁群があり、〝小水城〟と呼ばれている。
小水城は今のところ推定地を含めて6ヶ所で、そのう ...
水城欠堤部の石敷遺構と畦道と落差工

水城の土塁は御笠川の部分が開いている。(以下〝欠堤部〟と表記。)
ここにもかつて土塁があったのではないか?という考えが過去にはあったという。
現在のような姿になったのは川の氾濫などで破壊されたためというのだ。
確かなのは天智天皇が水城を改造したことだけかもしれない(追記有り)

文末の追記を必ずお読み下さい。
天智天皇が水城を疎水式に船を通す湖に切り替えたとして、現在の水城土塁の高さは分水界の標高より低いため、玄界灘から有明海に船で行くには更に高い場所に水源が必要だ。
と言うのが前回の ...