博多の人は太宰府よりもむしろ都府楼の言葉を口にする

博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。〝とふ〟とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。〝ろう〟はrych(リ ク)、即ち湊の管理総帥の要職にある(らう)であるが、後には宴席の座を貸す樓になった。これが中世以後の太宰府の姿であった。

(『儺の國の星拾遺』p.130)

上記文中では博多とあるが、博多以外でも太宰府政庁跡のことを「都府楼(とふろう)」と言う。

地元の日常会話で「太宰府に行こう」は〝太宰府天満宮〟とその周辺に行くことで、「都府楼で遊ぼう」は〝太宰府政庁跡〟の広い原っぱで遊ぼうと言う意味だ。

大人達が言うので子供も自然とそう呼び、リレーされながら続いてきたのだと思う。
西鉄大牟田線の駅名になっていることも大きいかもしれない。

菅原道真の漢詩にも「都府楼纔看瓦色(とふろうはわずかにかわらのいろをみる)」とあり、〝都府楼〟が昔からの呼称だとわかる。

ただ最近は、バス停や町のあちこちにある案内表示が「大宰府政庁跡」なので、都府楼は使わないようになってきたかもしれない。

さて、『儺の國の星拾遺』によれば、〝とふろう〟の〝とふ〟とは胡語のdaw(ダウ)で、舟及び舟を操る人のことだという。

〝ダウ舟〟とは、次のようなものだ。

ダウ船(ダウせん、英語:dhow)は、古代からアラビア海・インド洋で活躍した伝統的な木造帆船。主に中東アジア、インド、東アフリカ等の沿岸で使用された。 1本か 2本のマストに一枚ずつの大三角帆(ラテンセイル)を持ち、外板を固定するための釘を一切使わず紐やタールで組み立てることが特徴。 現在もダウ船は造船され、モーター等の船外機や船内機を動力として使用されている。

(ウィキペディアより)

〝ダウ〟は帆のある木造船なのだ。

インドのダウ船
Boutre indien.jpg
By Herve Cozanet – http://www.marine-marchande.net/, CC 表示-継承 3.0, Link

タンザニア、ダルエスサラーム近くのダウ船
Dhow.jpg
パブリック・ドメイン, Link

以前、水城は天智天皇が疎水式に舟を通す湖にしたものだという話を紹介した。

もし伝承が本当であれば、当時はこういう帆を持つ船が行き来していたと思われる。

余談だが、この本の別のページで遠朝廷(とおのみかど)の〝とお〟も、通古賀(とうのこが)の〝とう〟も、この「daw(ダウ)」から来ていると書いてあった。

当時、交通の主力が舟だったことがわかる。

この本には〝ダウ〟の他にもいろいろな船の話があるので、例として箇条書きで紹介する。

枯野→カヌー?
二荒舟(有明舟)→葦舟
磐楠船→樟で作った船
朝倉舟→底が浅い舟

などなど。

舟の材料が違ったり、構造が違ったりすると、呼び分けていたようだ。

面白い。