萬葉集は八百萬やほよろず青人草あおひとぐさうたひの集大成

大伴家持(七一八~七八五)が、太宰権帥だざいごんのそつ大伴旅人(六六五~七三一)と共に筑紫に在ったのは養老四(七二〇)年から天平二(七三〇)年の間であった。
 萬葉集二十巻を編簒したのは大伴家持と伝えられている。萬葉なる家集の題名の由来は、八百萬やほよろず青人草あおひとぐさうたひの集大成であったと説かれている。
 筑紫には大陸の帰化人租界人と多種多様の異邦人が同居していた。事あるごとに祖神の祭礼には氏族固有の歌曲を合唱していた。これを太宰府の官人たちは 〝つくしのあまのはらの、かたりのうた〟 と一括表現していた。これを略して萬葉なる表題をまとめあげたのである。

(『儺の國の星拾遺』p.126~p.127)

現存する最古の歌集『万葉集』が、このような題名になった由来は〝八百萬やほよろず青人草あおひとぐさうたひの集大成〟から来ているという。

    いうなれば、
    〟は〝八百萬やほよろず
    〟は〝青人草あおひとぐさ(国民、 民草(たみくさ) の意。)〟
    〟は〝うたひの集大成〟

の意味というわけだ。





また、国際貿易の中心だった太宰府には多くの帰化人租界人がおり、それぞれ氏族固有の歌曲を歌っていたという。

太宰府の官人がそれを一括して〝つくしのあまのはらの、かたりのうた〟と総称していたのを略したものだとも言う。

万葉集の成立にはいくつかの過程があるが、家持が関わった時に当時の太宰府の状況が反映されたのはあり得る話だと思った。

なお万葉とは天の星々のことだという話もあり、筆者の家系においては「万葉」に複数の意味を持たせているようだ。