文永への改元理由は太陽と高木星が春分に同時南中したことだった & 同時南中の計算法

1264年に日本は年号を「文永」に改元しているが、その理由はアンドロメダ()河と太陽が同時に南中したこととする話がある。

 日本人も蒙古人もその(はる)かな祖先はAndromeda(アンドロメダ)大星雲を拝していた。神代紀に出る高木神(**たかきのかみ)がそれである。これを大嶽(たいがく)と名付けていた。
 日本は文永元年、蒙古は至元元年と改元したその年は、春分の正午にAndromeda(アンドロメダ)の中心が重なった。西暦一二六四年であった。
  (中略)
 日本も蒙古も全く同じ時代に全く同じ趣旨でAndromeda(アンドロメダ)が、春分の正午に太陽と上下に並ぶ年に改元した事実をよく考察せねばならない。

(『儺の國の星拾遺』p.22~p.23)

1264年の春分をシミュレートしてみると、確かに太陽とアンドロメダ銀河が子午線上にあり、同時に南中していた。



・地上から南方向を見た図




・星座早見形式
(わかりやすいように昼光を消している。場所は太宰府政庁跡に設定。)


昼間のアンドロメダ銀河の位置を割り出すのは日々の観測で可能だが、おそらく計算で求めたのではないかと気になっていた。

先日久しぶりにプトレマイオスの『アルマゲスト』を読んでいたら、「太陽と同時的な恒星の出没と南中」という章があり、案外これだったかもと思ったので自分用メモとして記録。

『アルマゲスト』プトレマイオス/ 訳:藪内清より

計算の仕方は他にもあるが、いずれにしてもプトレマイオスの時代にこの方法があったのなら、13世紀に計算で日中の星の位置と太陽の位置を知るのは難しくなかっただろう。

なお「日本人も蒙古人もその(はる)かな祖先Andromeda(アンドロメダ)大星雲を拝していた」とある。

1264年の同時改元がその証拠というのだ。

改元は単なる偶然だと思うが、蒙古人と日本人が共通のルーツを持つというのはありうると思った。(蒙古斑がいい例)



*『儺の國の星拾遺』ではメシエカタログに従って〝アンドロメダ星雲〟としているが、星雲ではなく銀河系であることから〝アンドロメダ銀河〟とした。



**アンドロメダ銀河の別名を「高木星(たかきのほし)」と言う。

Andromeda(アンドロメダ)の大星雲を遠い祖先は高木星(たかきのほし)と呼んでいたものと思はれる。

(『儺の國の星』p.193)

余談になるが、アンドロメダ座と星を共有する〝ペガサス座の大四辺形〟を「高来星(たかきのほし)」と言う。


(StellaNavigatorで作成。)

星座が重なり合っているように「高木星」と「高来星」のエピソードも重なっていて面白いのでいずれ紹介したい。