筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の氏族 地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている
筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の
士族 であった。地元は今に至るまで〝ちくし〟を守っている。察するに本来は〝つくし〟であったらしいが、太宰府なる万人往来の国際都市が、神功皇后二十三 (二二三)年以来連綿として隋(五八一~六一七)まで存続していた環境が而 らしめた所であった。いかに大陸の文化による客観的伝統が〝ちくし〟を固定させたかになるが、最も重要なことは、水城に朱船の発着ごとに外人の干支と、倭人の干支を対応させる史官の職務が基本であったかを知らなければならない。(『儺の國の星拾遺』p.59)*「士族」は「氏族」の誤りかと思われたが、原文のままにした。あるいは士族とは大伴氏のことだろうか?
北部九州では「筑紫」を「ちくし」と読む。
筑紫野市は「ちくしの」市、筑紫駅は「ちくし」駅、筑紫が入っている小中高大学校も「ちくし○○学校」だ。
これは「太宰府なる万人往来の国際都市」が、「〝ちくし〟を固定させた」からで、「大陸の文化による客観的伝統」なのだとか。
大陸の人達が太宰府のことを通称・愛称的に「ちくし」と呼んでいたので、地元でもそう呼ぶようになったというのだ。
では「ちくし」とはなにか。
〝つくし〟とは竹斯であって、倭人は筑紫と書きこれを〝ちくし〟と読むが、元来は鑑正、略して汗青、即ちすなわち若竹を火に通して搾り出た油を灰で拭き磨き揚げて多量に用を足すか、または永久保存に古竹を薄片にはいでこれに干支を
漆書 きした冊子 であった。(『儺の國の星拾遺』p.59)*汗青=〔古代中国で、青竹を火にあぶって油を取り去ったものに文字を書いたということから〕記録。歴史。
汗簡 。殺青 。(weblioより)
紙が無い時代は木や竹を平らな板状にしたものに書き、綴じて文書にしていた。
交易船が行き交う太宰府では、出入りする外国船のスケジュールを管理する帳簿、つまり「
筑紫と書いて「ちくし」と読む理由がここにあるのだとしたら面白い。
(現代で言えば、サンタクララやサンノゼなどを含む地域の通称を、ICチップの素材シリコンに象徴させてシリコンバレーというようなものだろうか??)
なお、「ちくし」については別の伝承もある。
縄文の頃は津波が多く海浜の波に洗われて磨かれた転石を積み上げて、波止めを築いた。これが筑紫の由来と説かれている。隋人は竹斯と書いた。記紀には磯城の名で誌されている。
(『儺の國の星拾遺』p.27)
石を積み上げた防波堤を隋人が称したのが筑紫だという。そしてそれは記紀に磯城と書かれたものだそうだ。
また太宰府が国際色豊かで西域の外国人(
筑紫 を地元では〝ちくし〟と云う。竺人 の訛りと説かれている。竺とは徳人 、或は篤人 、即ち西域の胡人、ならびにその文化伝統の総称であった。中世では天竺 は釈経の発祥の地であり、伝来の地であった。今のSilkroad がこれであった。〝ちく〟とは韃靼 、斯丹 のことであった。(『儺の國の星拾遺』p.71)
ただ、この〝竺〟は雄略帝十七年以降現れなくなったそうだ。
筑紫の
東島 と西島 が針摺で繋がれたのは雄略帝十七(四七三)年の頃からであるが、爾後 この竺 は現れない。(『儺の國の星拾遺』p.71)
かつて海面が高かった時代に玄界灘と有明海は繋がっており、九州島は今の佐賀長崎と福岡熊本大分宮崎鹿児島に分かれていて、それぞれ天原島・宇佐島と呼んでいたのだそうだ。
当時は有明海から玄界灘に水路で行けたが、雄略帝の時代に針摺(筑紫野市)付近が埋まったのだという。
そのため船による竺人の往来もなくなり、
それでも「ちくし」の呼称は残り、現在に至っているというのは面白い。
また「筑紫」を「つくし」と読むのは大和の士族(氏族)であり、「竹斯」を「筑紫」と書き「ちくし」と読むのは倭人だとも書かれている。
言葉通りなら、大和の士族は倭人ではないことになる。倭国と区別できる別の勢力があったということか。