水城の取水口
瀦水塘の閘門の板扉を揚げて水を落とす時期に輝く星を「板取星」と呼ぶ話を紹介した。(前記事参照)
太宰府市と大野城市にまたがる水城もまた「瀦水塘」だというのが『儺の國の星拾遺』に伝わる話だが、水城の閘門(この場合は取水口の意味)は板扉ではない。
発掘調査で出土した取水口の様子は次の通りだ。
上の遺構を基に書かれた想像図。
同じく復元模型。
丸太が4本あるのが栓の役割を果たしており、二人居る人物は丸太を抜いて水を穴から流そうとしている。
参考までに初歩的な取水施設の図も示しておく。
初歩的な取水施設は「樋管」に「樋棒」で栓をしたものだそうだが、水城の復元模型の取水口は大規模なものだ。
樋棒が複数有り、柱は大人が抱きかかえても手が回らないくらい太い。
ここから水を落とすためには大勢が滑車か梃子か何かを使って樋棒を抜く必要がありそうだ。
瀦水塘の閘門の板扉を揚げて水を落とす「板取り」とはレベルが違う、と思ったのだがうまく整理できないでいた。(「板取り」も規模によっては大がかりだったと思うが。)
一方で、板取星の話を書きながら思い浮かんでいたことがある。
それは桜ヶ丘4号銅鐸に代表されるこの図だ。
カタカナの「エ」に似たものを持つ人物図。
これは水路の板を取って田に水を引く様子を表現しているという説がある。
しかも喜んでいる様子なのだとか。(諸説有り)
つまり既に弥生時代から、「板取り」が農作業を代表する行為だったのだ。
それは季節の風物でもあっただろうし、豊作を期待する心情も伴っていたのではないだろうか。
時代が進むにつれ自然の水路から人工の水路になり、貯水池になり、更に規模が大きくなっても、水を落とす作業は「板取り」と認識されていたのかもしれないと思った。
筆者が言う「瀦水塘の閘門の板扉を揚げて水を落とす」とは、具体的に「板」を外すことではなく、水門を開いて水を引く事全般が「板取り」なのではないかというのが、現段階での私の結論である。
文中に登場する「瀦水塘」と「瀦水畓」の二つの文字の書き分けがあるかどうかは、今後の課題としたい。
ちなみに「塘」とは土手のことであるが、中国では平地に築堤したいわゆる「皿池」を意味するそうだ。
対して「畓」は韓国で作られた国字で水田を意味する。
水城は「皿池」というより「谷池」であるし、筆者は「瀦水畓」を「瀦水塘」と同じ意味で使っているが「畓」本来の意味ではない。
このあたりもスッキリまとめられない要因になっている。