脊振千坊聖茶まつり

臨済宗の開祖栄西禅師の功績をたたえる三年に一度の大祭が、吉野ヶ里町の修学院とその周辺で行われた。

本来2021年が大祭の年であったが諸般の事情で延期になり、今年も直前まで開催を危ぶまれていたのを無事催行されたのは嬉しい限り。

例年だと山中の霊仙寺跡も会場になるが、残念ながら豪雨による土砂災害が復旧しておらず今回は外れていた。

大祭会場になると周囲が整備され登りやすくなるので期待していたのだが残念である。

(ここに来るまでも、「このあたりに取り付き口があったはず・・・」と思っていた場所が踏み跡すらなかったり、奥の方で横倒しや斜めになっている竹がバリケードのように立ち塞がっていたりで、近年の豪雨被害の大変さを思い知るばかり。。。)



それはさておき、今回の訪問で「あれっ?」と思ったものがあるので紹介したい。

修学院に隣接する熊野神社の境内にあった二十三夜尊だ。

上に刻まれた梵字は〝サク〟と読めるので勢至菩薩。

ここで月待ちが行われたのか、それとも他の場所から遷ってきたものなのか。

ちょうど久留米市田主丸町にある月読神社の紋が二十三夜と三つ星っぽいと思っていたところだったので、急に私の中で二十三夜が浮上してきた。


久留米市田主丸町二田(ふたた)にある月読神社の幕。描かれている月は下弦で二十三夜ぐらいの細さ(太さ?)
ついでに言うと、ここは三夜様(さんやさま)で有名な田主丸中央商店街近くの月読神社の元宮であり、田主丸町二田は二田物部の筑後における拠点という。





さらに進んでいると、薬師堂の花手水に目がとまる。

水もきれいで美しかった。



修学院境内では参加者全員に栄西禅師にちなんだ石上坊の御朱印が授与された。

御朱印はいただかない主義だがこんな立派なものを「どうぞ」と渡されたら断れない。

石上坊といえば、近くにサークル状の磐座があると聞き行きたいと思っているがまだ果たせずに居る。


なぜ行きたいか話せば長くなるが、発端はこれだ。

物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

(『儺の國の星拾遺』p.109)

〝背振の北と南〟と言う表現は漠然としているが、これは坂本峠を挟んだ南北の話ではないかと思っているのだ。(もしくは七曲峠・大峠。)

そして「隈」がつく地名は伝承に即して考えれば観星台の可能性があるので、吉野ヶ里町松隈には以前から注目していたのである。

そこにサークル状の磐座。

ついイギリスのストーンヘンジ大湯の環状列石を想像してしまう。


星を見るのに都合がいい場所は、何をどのように見るかにより平野であったり山頂であったり中腹であったり麓であったりする。

標高よりは比高、比高よりは累積標高(すべてのアップダウンの「登り」の合計数値)が問題だ。

石上坊がある吉野ヶ里町松隈はそういう条件が揃っているように感じている。

もちろん全く見当違いかもしれないし、その可能性の方が高いのだが。


栄西禅師像と石上坊にそんなことを思った。