『書紀』における「堤」はすべて水をためる構造物を意味している(追記有り)


2022/11/27追記
水城欠堤部の石敷遺構と畦道と落差工に書いたが、水城の欠堤部は築造当時からあったと言うことで、土塁の高さで満水になることはあり得ない事がわかった。

この話はあくまでも〝伝承〟の紹介としてお読みいただきたい。

2024/01/04追記
2024年1月1日に能登半島地震が起きた。垂直方向に最大4㍍の隆起が観測されており、湊では海底が露出している。
水城は警固断層が貫いており、地殻変動の可能性も否定できないがこの記事ではそこまで考慮できていない。

福岡県太宰府市と大野城市にまたがる水城は、『日本書紀』天智天皇3年に「又於筑紫築大堤貯水名曰水城(また筑紫に大堤を築き水を貯え名づけて水城と曰う)」と書かれた土塁だ。

唐・新羅の侵攻に備えた防塁とされている。



しかし、初めに水城を造ったのは筑紫国造磐井で、それは耕作のための瀦水畓だったという伝承を紹介した。(前記事「筑紫国造磐井がひらいた水城なる瀦水畓とは」)

背振山系と三郡・宝満山系に挟まれた平野の狭隘部を土塁によって堰き止め、太宰府側に水を貯めたのが水城だというのである。

水城の水はどこに貯められたのか、土木技術の観点から論じた方が居るので紹介したい。

河川工学からみた水城

河川工学の専門家島谷幸宏氏が考察された文を紹介する。(九州地方の方は豪雨ニュースの度に専門家として登場されるのでご存じかもしれない。)

土木技術に関する部分はもちろん、『日本書紀』の中で「堤」という字がどう用いられているかに言及された部分が興味深かった。

日本書紀には堤という字は,水城を含めて15か所みれる.その内訳を見てみる.万葉仮名の読み「て」として用いられているところ5ケ所.景向天皇紀,日本武尊の記述で「三尺の剣をひきさげ(堤)」とひさげるという動詞として用いているのが1ヶ所.景向天皇紀に「造坂手池.即竹蒔其堤上」とあり,ため池の堤として用いているところが1ヶ所.仁徳天皇紀に,淀川の茨田堤の堤防に用いられている個所が4か所,河川堤防と考えられる「横野の堤」としている個所が1ヶ所.用明天皇紀に,「逆之同姓白堤与横山言逆君在処」として人の名前の「白堤」として1か所.大化時代に「国々可築堤地」とやはり堤防として1ヶ所.そして最後に天智時代,「於筑紫,築大堤貯水.名曰水城.」とある.
堤は基本的に水をためる構造物に使う用語であり,日本書紀には堤という字を防塁の意味でつかった場所は1個所もない.水城大堤も水を貯水するための構造物だったのではないだろうか?

備考:文中のperiodとcommaは原文のまま引用。

(『土木史研究 講演集』 Vol.35 2015年 p.155~p.156)

〝堤〟は基本的に水をためる構造物に使う語であり、防塁の意味でつかった例は『日本書紀』には一個所もないというのだ。

よって「水城大堤」も水を貯水するための構造物だったという指摘である。

どの『日本書紀』なのか底本が明記されていないが、おそらく近年になって活字化されものと思われる。

古典籍の場合写本ごとの校異の検討が必要だが、それでもこの指摘は意義深いと思った。

また島谷氏は、水城が低地を締め切る構造物だという観点から、次の事も述べられている。

  1. 現在発見されている木樋の大きさでは、洪水時の流水を木樋のみで排水するのは困難である。
  2. 水城の欠堤部分は元々に洪水吐きがあったとして、越流水深を1-1.5m程度と考えると、排水するには非常に規模の大きな洪水吐が必要
    であまり現実的ではない。

1 だと太宰府側に水を貯めないと周囲にあふれてしまい被害が出ることになる。

2 だとかなりの大きさの洪水吐きが必要で、洪水吐きが大きければ堤防の用を為さないので現実的ではないとなる。

よって1 と 2 いずれにしても、太宰府側に水を貯めることになるというのだ。

***補足***

〝洪水吐き〟とは、堤防の一部を低くしてそこから余分な水が流れるようにしたものだ。イメージとしてはこんな感じだろうか。

Alpsdake投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

画像は砂防堰堤だが中央部が低くなっていてそこから水が流れるようになっている。

水城の土塁に洪水吐きがあったとしたらこのようなものだったと思われる。

また洪水吐きが大きければ堤防の用を為さないことがわかる。

〝水城〟に1350年前の先端土木技術を読む

林重徳氏の論は具体的だ。

  1. 遺跡に“古代の建設技術”を読む(「ジオシンセティックス論文集」第18巻2003.12)
  2. 現代の土木技術者から見た水城の構造と築堤技術(『水城跡』下巻2009年/九州歴史資料館)
  3. 特別史跡“水城”に1,350年前の先端土木技術を読む(土木研究所新技術ショーケース2015 in 福岡発表資料)

水城の構造と貯水に関して島谷氏とほぼ同様の事を述べられ、グラフや図を用いて更に具体的に考察されている。

例えば、水城の欠堤部で発見された石敷遺構を洗堰だとして、太宰府側に貯水されていた様子を次のように示されている点などだ。

これは以前、天智天皇が疎水式の運河にしたという工事をカシミール3Dでシミュレーションした結果とほぼ同じで驚いた。(該当記事はリニューアル中のため非公開)

水城は筑紫国造磐井がひらき、天智天皇が疎水式に船を通す湖に切り替えたというのが『儺の國の星』『儺の國の星拾遺』が伝える話だが(過去記事参照)、この件に関しても林氏は考察されている。

とても興味深いので次回以降紹介したい。

なおこの発表以後の発掘で欠堤部に外濠がない部分が発見されている。

上図はあくまでも予想図であることに留意されたい。

2020年の発掘調査で欠堤部の博多湾側に濠が存在しないエリアが確認されている

紹介した島谷氏と林氏の論は、新しいもので2015年付けとなっている。

実は2020年に行われた発掘調査で、御笠川に面した土塁北側に外濠が存在しないエリア=平坦部が確認されている。(特別史跡水城跡第 64 次調査成果資料

現状で東西 70m以上、南北約 35mとのこと。

現地説明会がCOVID-19の影響で中止となったため、代わりに動画が作成されている。




水城の水は江戸時代~大正時代頃までは内側(太宰府側)に貯水したと考えられていたが、1975 年に博多側に幅 60mの外濠が確認され、1976 年には太宰府側に内濠が見つかったことで変化している。

現在は土塁前後に濠を設けその間を木樋(導水管)でつなぐ構造と考えられるようになった。

しかし、この調査で外濠のない平坦部分があることが確認され、水城の構造がまだまだ明らかになっていないことがわかる。

二人の土木工学の専門家が太宰府側に貯水したと考えていることもあわせて、次回は磐井がひらいた瀦水畓の構造について考えたいと思う。