瀦水畓の「畓」と「salta」と「猿田」

山の麓の平坦な谷間を上手かみて下手しもての二つに別けて、その堺の狭くくびれたところを仕切って、ここに堤と閘門を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑こがになると、そこに晩生の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。この農法は今も大陸では保存されており、瀦水畓と今も呼ばれている。

(『儺の國の星拾遺』p.140)

水城は筑紫国造磐井がひらいた瀦水畓だとする話に関連して、瀦水畓の「畓」の字について考えた。

次は、『那珂川の地名考』前編「四、日吉神社」に書かれている内容だ。

今は、水田の水口は上手にあって、水流を引き入れる形式をとっているが弥生の昔は違っていた。下流をせき止めて、その逆流が上流の両岸を適当に水没させる形式であった。これを韓語でsalta(サルタ)と呼び、これに播きつける品種をsalpe(サルペ)と呼んだ。猿田彦の神名の由来がこれである。sal(サル)は漢字で水を冠とし、その下に田を添える。水田を重ねて一字にした特有の文字で、漢字にはない。

(『那珂川の地名考』前編p.15~p.16)

瀦水畓の「畓」の字は、韓語のsalta(サルタ)salpe(サルペ)の〝sal〟を表したものだという。

そして上流の川岸にあらかじめ種を蒔いておき、下流を堰き止めることで水没させる(水を張った田にする)ことがsalta(サルタ)だそうだ。さらに、神名「猿田彦」の由来でもあると。

これはこれでダイナミックな耕作方法だが、筑紫の磐井がひらいた瀦水畓は冬に上流に水を溜めるものだった事を考えると、同じ「畓」でも内容に違いがある。


続きを引用する。

sal(サル)は胡語でshol(ソル)から派生し、河水の氾濫でその流域に広く堆積した土壌のことである。即ち、川岸の傾斜が極めてゆるやかで、川水が広く、浅く流れる光景を呈する地形をも言う。まず、この両岸に陸稲を播きつける。晩春、初夏の日射を吸収して稲が育った頃、(*ママ)流を閉めてこれを水浸しにする。水位の調整に熟練の技術を要し、日夜の管理に細心の注意を怠らず、もし雨水多き時は、直ちに放流して田土(どんだ)を乾燥させる。現在、夏の土用に、時々水を落して田干しする要領は、この頃の技術の遺産である。

*「河流」は「下流」の誤字と思われるが、原文のママ表記した。

(『那珂川の地名考』前編p.16)

田植え後二月ほどして水田の「中干し」をするのは、この弥生時代の技術の遺産だという。

面白い。

しかし陸稲を播いたのであれば、生育したものを水に浸す必要は無いはずだがどうなっているのだろうか、と思ったら続きがあった。

水稲の別名を水待ち草、あるいは水(ほし)(欲)草と読む道理は、このsalta(サルタ)の技法をよく表現する。salpe(サルペ)はしたがって半陸稲半水稲の品種に外ならず、遠く三国の以前に韓土に行なわれ、北陸に伝来した農法であった。

(『那珂川の地名考』前編p.16)

salpe(サルペ)は半陸稲・半水稲の品種だそうだ。

だから陸稲として播種し水稲として育てるわけだ。

文中の遠く三国以前とは、高句麗・百済・新羅以前の小国や部族国家があった時代だ。

その頃に北陸に伝来した農法だという。(北陸とはどこだろうか。能登半島あたりか?)

サルベとサルタについては他にも色々あるのだが、猿田彦に繋がるなど話が長くなるので別の機会に紹介しようと思う。


瀦水畓についてまとめると、弥生時代には下流を堰き止めて上流を水没させるものだったのが、古墳時代には冬場に水を溜めて瀦水の面積も耕作に利用するものになったことになる。

磐井がひらいた水城は後者だ。

だが私は水城の堤体そのものは「塘」の技術ではないかと思う。

栽培で用いるのが「畓」の技術なのだ。

弥生時代の瀦水畓の延長に磐井の水城があるのか疑問は残るが、土木技術と栽培技術のクロスオーバーがあり、どちらに焦点を当てるかで表記が揺れるのではないかと思った。(というか、そもそもそこまで厳密ではなさそうだ。情報が多すぎて、単に話があちこち飛んでいるだけかも?)

2022/6/05追記

唐津市の菜畑遺跡は土盛りの畦によって区画された小規模(10~20平方メートル)な水田跡で、約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃のものとされる。

唐津市の「国指定史跡 菜畑遺跡」より引用

稲作の技術も規模も様々なスタイルがあり、一つの例でその時代を語れるわけではないと思っている。