水城を中津あるいは中大江なかのおおえと言った(追記有り)

2022/11/27追記
水城欠堤部の石敷遺構と畦道と落差工に書いたが、水城の欠堤部は築造当時からあったと言うことで、土塁の高さで満水になることはあり得ない事がわかった。

この話はあくまでも〝伝承〟の紹介としてお読みいただきたい。

2024/03/23さらに追記
水城の欠堤部が築造当時からあったことについて。
もし後から掘り込んだのであれば版築層が乱れているはずだが、専門家が当初からあったと判断したのであればその痕跡はなかったと思われる。

2024/01/04追記
2024年1月1日に能登半島地震が起きた。垂直方向に最大4㍍の隆起が観測されており、湊では海底が露出している。
水城は警固断層が貫いており、地殻変動の可能性も否定できないがこの記事ではそこまで考慮できていない。

海面が今より高かった時代、玄界灘と有明海は繋がっていた。

そのため北部九州は海峡で隔てられ、西の天原島と東の宇佐島で構成されていたとのこと。

産業技術総合研究所地質情報総合センター海面上昇シミュレーションシステム(https://gbank.gsj.jp/sealevel/)より

二つの島は現在の久留米市長門石付近で接近していた。

そのため「取り次ぎ・あいだ」という意味の「なかて」に由来する「〝ながと〟石」と言う地名になったという。


さて話は変わって、天原島と宇佐島が接近している場所はもう一カ所ある。

それは筑紫野市から太宰府市にかけての狭い地域だ。

西には背振山系があり東には宝満・三郡山系があるため、有明海側から玄界灘方面に峠越えをせずに行くにはここを通るしかない。

そしてその地峡帯を遮っているのが水城の堤防である。

水城跡 概観
STA3816投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

『日本書紀』天智天皇3年に「又於筑紫築大堤貯水名曰水城(また筑紫に大堤を築き水を(たくわ)え名づけて水城と()う)」と書かれた土塁だ。

これは博多湾側からの攻撃に備えて太宰府を守るためだとされているが、『儺の國の星拾遺』によれば、もとは筑紫国造磐井(くにのみやつこいわい)が造った大きな瀦水畓(稲作用の溜池)だったという。

天智帝(六六二~六七一)は、かつて筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)(四一八~五二八)がひらいた水城なる瀦水畓(ちょすゐたう)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替える大工事をされた。

(『儺の國の星拾遺』p.140)

注:「ちょすゐたう」の「たう」はという字。

全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの土塁で堰き止められた瀦水畓があったとすれば、それは広大なものだっただろう。

この水城(瀦水畓)のことを中津・中大江(なかのおおえ)と言ったそうだ。

太宰府の前から玄界灘に至る広大な水城を中津、或は中大江(なかのおおえ)といった。天皇の名及び皇太子名にこれが流用されている。神代の昔は(なかの)大瀛(おほうみ)であった。中大兄皇子と仲臣鎌子の関係がよく察せられるところである。

(『儺の國の星拾遺』p.130)

*神代の昔=海面が今より高く、有明海と玄界灘が繋がっていた時代か。

しかも「天皇の名及び皇太子名にこれが流用されている」とのこと。

ちょっと信じられない話だが、「なかつ」「なかのおおえ」の名を持つ人物で思い浮かぶのは足仲彦天皇・中皇命・中大兄皇子、だろうか。

もしそうなら、これらの人物は筑紫の水城と関係があることになるが、よくわからない。

また中大兄皇子と仲臣鎌子の「なか」もこの瀦水畓に関係しているらしい。

共に「なかつ・なかのおおえ」の工事に当たったと言うことか、それとも「中継ぎ」の意か、こちらもよくわからない。


水城の話に戻る。

これまでの内容を時系列に並べると、水城の歴史に大きな三つの出来事があるようだ。

    1、 神代        
       玄界灘と有明海を繋ぐ海であった冲大瀛(なかのおほうみ)
    2、 筑紫国造磐井の時代
       灌漑用の瀦水畓(淡水)
    3、 天智天皇の時代
       疎水式に船を通す湖(淡水)

海進時代には海だったところがだんだんと陸地になり、磐井の時代に貯水池となり、天智天皇が磐井の造った土塁を再利用して玄界灘と有明海をつなぐ水路を復活させた、という流れになる。

そして通説では博多湾側に水が貯められていたとするが、筑紫国造磐井や天智天皇の工事は太宰府側に水を貯めたことになる。

大野城市のウェブページ水城跡より引用

太宰府側に水を貯めた場合について、自分なりに考えてみたいと思う。

この話、もう少し続く。