邪馬臺国の奴佳鞮 は諫早北部を領有した王
獅子座中轅星の話の続きだ。
この星の別名を〝なかてのほし〟と言った。
〝なかて〟とは「〝とりつぎ〟或は〝ひきあひ〟など媒酌人的存在」を意味する言葉だったが、それが地名に用いられ、官名にもなったそうだ。
魏志倭人傳の邪馬臺国の条に奴佳鞮なる官名が見える。肥前多良岳(九八二、七米)から南の諫早地峡の間を領有した王である。九州本土が高来彼杵の半島に接するところである。これが〝なかて〟なる倭語が、大陸の史書にみえる文献である。
(『儺の國の星拾遺』p.130)
魏志倭人傳の邪馬臺国の条というのは、次の部分だろう。
【原文】
至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬戸【口語訳】
邪馬台国に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところで、長官を伊支馬、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・奴佳鞮という。七万余戸ばかりがある。*太字はnakagawa
*口語訳参考:http://www.yoshinogari.jp/ym/
*奴佳鞮 の「て」が文字化けする方へ
という字。
諫早地峡のような場所を「なかて」と言い、そこを領有していたリーダー(長官)を土地の名前「なかて」で呼んだというのだ。当てられた漢字が「奴佳鞮」。
わかりやすい例で言えば、鎌倉に居た権力者を〝鎌倉殿〟と呼ぶようなことだろうか。
「肥前多良岳から諫早地峡の間」を地図で確認してみると、この場所が「なかて(=〝とりつぎ〟的な位置)」であることがよくわかる。
西彼杵半島・長崎半島・島原半島が諫早付近を中心に風車のように突き出ている。
鉄道で言うと、長崎本線・大村線・島原鉄道が諫早に集まっていて必ず通る場所だ。
また陸路だけでなく、大村湾・橘湾・有明海の移動も諫早経由が早い。
海面が今より高い時代は船越も容易だっただろう。
陸海の要なのが一目瞭然だ。
ここを「なかて」と呼んだのは頷ける話だ。
邪馬台国の「なかて(奴佳鞮)」のことはわからないが。