背振神社春祭り2022
現在は5月2・3・4日となっている脊振神社春の大祭は、中日3日に神事と上宮御開帳が行われる。
今年は快晴で絶好の日和だった。
ゴールデンウィークで大渋滞にはまり下宮で行われる神事には間に合わなかったが、幟が立った境内は普段と違う賑わいを感じられた。
拝殿の飾り彫りには波に兎と鷹。(今回初めて鷹があることに気づいた。)
境内には不動社や観世音菩薩。
(明治の佐賀の乱で焼失するまで、1740年に移ってきた多門坊が境内にあり、神仏習合であった。
修験道の名残は11月の採燈大護摩供に残っている。)
背振神社下宮から上宮へ向かう途中にも多門坊跡がある。元々山頂近くにあったものが段階を経て背振神社下宮に降りてきたことがわかる。
ここには多門坊歴代僧の墓所が残っているが、なぜか栄西像もある。
墓地や尊像はあまり撮らないのだが、木漏れ日がきれいで栄西師がにっこりされているように見えたので思わず。
そして背振神社上宮へ。
もはや坂を蹴け上がれなくなっている事に愕然としながら弁財天とご対面。(老化がステイホームで加速していた。?)
手には宝珠と剣、頭の飾りに三つ柏。愛らしい弁天様だった。
背振弁財天の祭はかつてはとても賑やかだったようだ。
5 月11日、12日、13日は、脊振山頂に祭られている弁財天の祭りが行われる。かつてはとても賑やかで脊振山頂には佐賀側から馬で引いて上がってきた出店も出ていた。青年たちはこのときに山頂の弁財天に連れだって参るものだった。男だけでなく嫁入り前の娘も登った。若者たちは脊振に登るのが楽しみで、名物のオコシゴメを買うものだった。
(福岡県那珂川町五ヶ山・佐賀県吉野ヶ里町小川内における文化財調査1『福岡県文化財調査報告書』 第215集p.312)
背振の御祭ではオコシゴメが名物だったそう。
オコシゴメ、つまり岩おこしとか雷おこしとか各地の名物になっているお菓子。
Kentin – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
なぜ〝オコシゴメ〟なのかが『儺の國の星』に書かれていた。
背振の御祭には必ず〝おこしごめ〟が店に出ます。これは昔の砂鉄精錬の生産品であります
玉 刃金を菓子に造形化した土産に外なりません。あたかも京都の銘菓で世に知られる八ツ橋が賀茂の神々の辛苦の結晶の黄金の延板を模倣した品にほかならないのと同じ事であります。*私注:玉鋼のこと
『儺の國の星』p.69
オコシゴメは玉鋼を模したもので、背振山で製鉄が行われていた事と関係ある、ということらしい。
以前、背振には元々賀茂の神(賀茂雷別神)が祀られていたと言う話を紹介したが、オコシゴメが象徴している〝製鉄〟の担い手が加茂の氏族でルーツは出雲、というのが筑前那珂川に伝えられている話だ。
不入道は埋金と共に
来勿戸 の神々が背振山系に豊富な露頭を曝していた黄金、黒金、或いは玉石を製錬琢磨していた当時の工人の部落があって、これを背振山東門寺が接収管理してきた*「不入道・埋金」は那珂川市にある地名
(『那珂川の地名考』前編p.88)
大浦から黒木・万事までの間に「けいむり」、「あんのたん」、「つめりさか」と通称が並ぶ。神代の頃の大穴遅神の遠い由緒がかすかに聞こえるところである。*「大浦・黒木・万事」は那珂川市にある地名
(『那珂川の地名考』前編p.71~p.72)
背振に居た加茂氏の話は他にもたくさんあり、本の中から拾い集めている最中である。
筆者の言を信じるなら加茂氏が背振に入ったのは紀元前560年頃となるが、真偽は置いておいてとりあえず時系列で並べられないか試みている。
また製鉄作業に必要なタイムテーブルと色見本に、星を利用した話もある。
背振は星を仰ぐのに絶好の場所でもあるから好都合だっただろう。
さらに背振には星の祈りもあったことが伝わっている。
今のところ古いのは天御中主のようだが、カノープスやトゥバンもあったり、時に並存しながら棲み分けたりしているような印象だ。
背振山地全体が花崗岩なので自然の露頭かもしれないが、よく見るとあちこちに石組みらしきものがあり、別々の磐座が山頂を共有しているのではないかとさえ思った。
〝せふり〟の由来も含めて、那珂川に伝わる伝承をまだ把握できていないので、いつかまとめられたらと思っている。