続・筑紫の神々は畿内に遷座して故郷発祥の地を凌ぐほどの繁栄隆昌を示している?

前記事で触れた、筑紫の神々が畿内に遷座したという話には続きがある。

筑紫の神々は畿内に遷座して故郷発祥の地を凌ぐほどの繁栄隆昌を示している。背振神社は京都賀茂神社に、現人神社は大阪の住吉大社に生まれ変わって本家本元はまことに寥々りょうりょうたる寂れ方である。神社は氏子の奉仕によって栄えていると言う。神の心に人の心が添はなかった事は、その氏族が離散することが大きな原因であったからかもしれない。里人の心が神殿に両手を合はす時に神様の御姿を心の中に描くことが出来る間は、祠は朽ち果てる事はないのである。

(『儺の國の星』p.68)

引用文中に背振神社と共に挙げられている現人神社は、住吉三神を祀る神社で那珂川市にある。

地元では摂津住吉大社の発祥の地とされている。(*1)


この文は「加茂星」の章に書かれている内容なので、背振神社が京都賀茂神社(この場合上賀茂神社を指す、以下同)に遷座したというのが主題だと思われる。

よって背振神社に関して話をしようと思う。

筑紫の背振神社とは背振山頂にあったとされる神社で、現在は賀茂の神ではなく弁財天が祀られている。(*2)

京都の賀茂神社創建以前に背振山頂に賀茂の神が祀られていたとすると、いったい何時のことになるのだろうか。

京都の上賀茂神社は神武天皇の時代に神山に降臨したのが始まり(公式webサイトより)となっているので、背振に賀茂の神が居たのは神武天皇以前になる。

およそ弥生時代のことのようだ。


あるいは京都上賀茂神社に社殿が造営されたのは677年とのことなので、社殿の登場を以て始まりとすれば677年以前となろうか。

社殿造営の677年を持ち出したのは、天智天皇が背振山の葵祭を京都に持ち帰ったという伝承が那珂川にあるからである。

百済復興支援のため斉明天皇が筑紫に滞在したのが661年、白村江での大敗が663年で、当然天智天皇(当時は中大兄皇子)も同行していた。

その時に背振の葵祭を見たというのだ。

仏教色が強くなるのは背振東門が和銅年中(708-715)に開基されて以降のことで、それ以前に賀茂の神が祀られていたなら天智天皇が見た可能性はある。

伝承はあくまでも伝承だが、真偽はさておき面白い話だと思った。

天智天皇が背振山で見たという5月の葵祭は、今は弁財天の祭りとなったそうだ。

その弁財天も明治の神仏分離令で山頂から降り、中腹の旧白蛇神社に身を寄せ(?)、背振神社となっている。

一度春季大祭の時に参拝したが、梅ヶ枝餅はあったけれどオコシゴメはなく、かつての賑わいは失われたようだった。

補足
*1
『住吉大社神代記』に登場する迹驚岡(とどろきのをか)が那珂川市にある地名。
「唐國に大神の通ひ渡り賜ふ時、乎理波足尼(をりはのすくね)命この山の坂木を以て迹驚岡(とどろきのをか)の神を岡に降ろし坐して齋祀る。」

*2
『那珂川の地名考』前編によれば、背振山に弁財天が祀られたのは貞観12(870)年だそうだ。(『日本三代實録』によれば、貞観12年は神階を授かった年。)
当時大干ばつが起こったため水神として勧請されたとのこと。
870年であれば東門寺は既に存在していただろうから、仏教の弁財天が境内仏として鎮座されたのだろう。