筑紫の神々は畿内に遷座して故郷発祥の地を凌ぐほどの繁栄隆昌を示している?

最澄に関する背振山周辺の伝承は、つまるところ背振の山岳寺院を権威付ける付会ではなかったかという個人的な感想を前回書いた。

一旦言葉にすると他の事柄も疑わしく思えてきて、例えば比叡山四明岳を東に見るように上賀茂神社が建てられたという話も怪しくなってきた。

実はあの話で困っていたのが日吉大社の社家のことで、賀茂氏の系譜に連なる者が日吉大社の社家になった(*1)ことと、上賀茂神社建立に先だつのが四明岳だと書かれていたこと(*2)をどう考えればいいのか悩んでいたのだ。(双葉葵の神紋に絡めて書こうとして、途中のままアップしていたのに今日気づき、該当箇所は削除した。)

冷静に考えてみれば、比叡山の四明岳は天台宗の聖地である中国の四明山に因む名で、それを筆者が天文に関係する名付けだと解釈したのではないか?と思える。

同じ地名・同じ祭・同じデザインなどがあると、本家は筑紫だとつい考えてしまうのは悪い癖かもしれない。

筑紫(この場合は九州北部)の人間には、どこかに次のような発想があるのだと思う。

筑紫の神々は畿内に遷座して故郷発祥の地を凌ぐほどの繁栄隆昌を今に示している。

(『儺の國の星』p.68)

いろいろなものが西から東へ移遷したのだと。

だから最澄が背振山東門寺を開基して比叡山に移したと聞くと、ついそうかと思ってしまうのだ。

もっと客観的になろうと思った次第。


ちなみに「冠座」を「日翳星(ひえいのほし)」「領巾星(ひれのほし)」「加茂星(かものほし)」と言う件についてだが、共通するのはたたら製鉄である。

「領巾星」の名がつけられたという比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は有名だ。

比叡山というとどうしても延暦寺のイメージが浮かぶが、最澄も延暦寺もない時代の近江を考えることが、星の話を理解することに繋がるように感じた。
  

補足

    *1 
    日吉大社の社司は加茂県主の同族と伝えられる祝部宿禰が、代々継承してきた。その祖は神皇霊産尊とし、天智朝のころの宇志麻呂のときに大比叡神を祀り、祝部宿禰を賜った。以後、その子孫が奉仕をした。十世紀に至って、左方と右方の二流に分かれ、それぞれ大比叡神、小比叡神の禰宜を務めた。のちに左方は生源寺を称し、右方は樹下氏を称した。

    *2
    那珂川市 日吉神社由緒