中世宗像宮と「御長手神事」に関するメモ
『儺の國の星拾遺』にある「中轅星」(獅子座δ星Duhr)の章を読んでいる最中だが、関連して「仲女星・中條星」の名が登場したことから宗像沖ノ島の「御長手神事」の話になった。(前記事参照)
そこで読んだ「御長手神事」に関する中世の記録が大変面白かったので、自分用のメモとして書いておくことにする。
以下箇条書きで。
1、『正平二十三年宗像宮年中行事』のこと
引用した部分を再掲。(PC閲覧推奨)
一、息御嶋
云々、
一、第一大神宮佛神事
三月廿日 御長手御鍛冶屋御入神事 社務役
六月廿日 御長手神事 社務役
九月廿日 御長手御鍛冶屋御入神事 社務役
一、息御嶋神事 第一宮本社
春 御長手神事 夏 同神事
秋 同神事 冬 同神事
一、政所社神事
十二月十六日 御長手神事 社務役「御長手神事と沖ノ島」岡崇 より引用
沖ノ島のことを「日本と高麗の境で第一大神宮の本社」だと書いている。
「日本と高麗の境」という言葉には、領海の最前線という意識があった事がうかがえる。(地理的には対馬の方が高麗に近いが。)
また「
鎌倉時代は第一宮が総社の位置づけで沖津宮(田心姫神)を中心に祀り、第二宮を中殿とし中津宮(湍津姫神)を中心に祀り、第三宮を地主として辺津宮(市杵島姫神)を中心に祀っていた。
当時重要な宮として第一(沖津宮・田心姫神)・第二(中津宮・湍津姫神)・第三(地主・市杵島姫神)と三つの宮があったが、「御長手神事」が行われていたのは第一大神宮だった。
中世後期の社殿の配置図(復元)を見ると、第二第三宮に比べ第一大神宮が格段に広い。
現在その位置には市杵島姫神が祀られているが、いつから田心姫神は第一宮の座を明け渡し(?)て、第二宮に祀られるようになったのだろう。その経緯が気になるところである。
「御長手神事」
沖ノ島で春夏秋冬年四回行われていた「御長手神事」とそれに対応する辺津宮の神事を表にしてみた。
(現在のみあれ祭と違い、沖ノ島と宗像田島との二者間で行われていた。)
春と秋は「御長手御鍛冶屋御入神事」となっている。
御鍛冶屋とはなんだろう?境内にあったのだろうか。
また、冬は第一大神宮ではなく政所社神事となっている。
政所社とは神社の行政と祭事を総括する所だそうだ。
年末なので特別だったのだろうか。
先に挙げた中世後期の社殿の配置図(復元)によると、第一大神宮の西側に政所社がある。
現在の宗像大社の境内にも政所社があるが、摂社群の中の一社という存在だ。
色々見てみると、「みあれ祭」は「御長手神事」を再興したというものの、当時とは随分様子が違うことがわかった。
2、『宗像大菩薩縁起』のこと
引用した部分を再掲。(PC閲覧推奨。)
強石将軍白旗赤旗 立置 、
於今者、其跡一所者號赤旗之社、
一所者號旗鉾之御堂、
其後強石将軍根本御影向之地、息御嶋
御手長、立置利 、
是則
毎年不絶、
三竹之瓶中、
無増減生長須留不思議有之、「御長手神事と沖ノ島」岡崇 より引用*改行はnakagawa
元寇を経て国防意識と神国思想が高まる中で、海外遠征に勝利した神功皇后が脚光を浴び、説話を題材とした寺社縁起が全国的に作成されたそうだ。
『宗像大菩薩縁起』はその中の一つとのこと。
他の縁起と違う点は、紅白の旗を振って戦いを指揮し、旗の合図で干珠満珠を海に入れたとしているところ。
また、旗を立てた跡が「赤旗之社」「旗鉾之御堂」として残っているとも書かれている。
「社」「堂」と、神道と仏教それぞれになっているところが面白い。
どこにあったのだろう。
跡地も失われてしまったのだろうか。
現地で探してみたくなった。
3、余談
余談だが、この紅白の旗を織らせたのは武内宿禰だという話が織幡神社に伝わっている。
金崎織機大明神者武内大臣之霊神也神功皇后三韓征伐之時織赤白二旒之旗被付当神宗大臣之御手長
(『福岡県神社誌』織幡神社)【書き下し】
金崎の織機大明神は武内大臣の霊神なり。神功皇后が三韓征伐の時、赤白二旒の旗を織りて、当神宗大臣の御 手長に付けらる。*御手長=御長手
*書き下しと太字はnakagawa
しかし、武内宿禰が織らせたのは青旗白旗だったという話もある。(伊万里の青幡神社と白幡神社。)
干珠満珠に関わるのであれば青と白の筈なのだが、紅白になっているのはやはりそれが「長手」だからだろうか。
「長手」←→「手長」のように言葉は揺れるものである。
発音では清音が濁音化することもあるだろう。
〝ながて〟は〝なかて〟の訛化かもしれない。というのはどうだろう。
「〝なかて〟とは竿に紅白の二条の布を螺旋状に巻いて、神を先導する器である。今も宗像沖島にこの伝統が守られている。」(『儺の國の星拾遺』p.129)