筑前大島と河野氏と倉良星の話
『儺の國の星拾遺』獅子座δ星Duhrの章で「なかてのほし」の名が出、そこから中世の宗像沖ノ島「御長手神事」の話になった。(前々記事・前記事)
以下は自分用のメモ。
筑前大島の河野氏
『正平二十三年宗像宮年中行事』に見える「御長手神事」は沖ノ島と辺津宮の間で行われていたもので、中津宮は登場しない。
中津宮は登場しないが、この時沖ノ島に渡島し御長手の竹を辺津宮に迎えたのは大島に居を構えていた
大島関係のもの(人)が全く関わらないと云うことは無かったのだ。
さらに一甲斐河野氏は、天正14年に宗像大宮司家が断絶した後ずっと神官として沖津宮の祭祀の役割を担ってきたという。
普段は大島にいて遙拝所で祭祀を行い、年二回沖ノ島に渡島して祭事を行っていたことが『筑前国続風土記』(貝原益軒)や『瀛津島防人日記』(青柳種信)などに書かれている。
春三月、冬十月、両度祭あり、むかし大宮司ありし時は、秋も祭り有しか、近世は秋を略して祭らす、風烈く、ふけは、波あらき故、渡事あたはす、故に祭日は定らす、社人は唯一人大島にあり、其家を一ノ甲斐と云、河野氏と称す、社人此島に着たる日より、毎日潔斎し、第八日に当る日祭る、かねて魚をつりて神膳にそなふ、魚を得されは祭日をのふる
『筑前国続風土記』宗像の島々:小呂島, 沖ノ島, 大島の歴史と地誌より孫引き
*太字はnakagawa
大島にある中津宮の方は
大島の中で沖津宮と中津宮がそれぞれ独立していたのは興味深い。
余談ながら河野氏の祖先は伊予だそうだ。伊予守護河野氏の時代からこの島にいたのだろうか。
戦国時代に活躍した河野水軍が、秀吉に解体された後黒田藩に仕えたことは知っていたがこういう縁があったことは知らなかった。
倉良の瀬戸の話
御長手神事が中津宮を介さず、沖ノ島と辺津宮の間で行われていたことで思い出した話がある。
それは、筑前大島と
玄界灘は平均一年につき一.〇三五糎/年の割合で水位が上昇している。筑紫の漁師はかつての谷が瀬に変った時代を口伝ながらよく記憶していた。そして陸が海に沈んだ年の春、深夜に天頂に達した星にその瀬戸の名を冠した。
早鞆星 、倶楽羅星 、平壺星 がこれであった。(中略)件 の倉良星 は今はややはずれる。察するに漁師は、α星から何許 かの距離を子孫に正しく口述していたはずであるが、歳月の経過は明るく光る星の方に無条件に偏寄らせてきたものと見える。(中略)倉良瀬戸が左右に開いたのは雄略帝九(四七一)年のことであり、この時南中に達した星があれば、今は四月一一.〇三八日にその行方を見ることができるが、そこの赤緯一三時二二.九分には光も影もない。それにしても宗像の神の二柱の間が潮で空けられる大事は、日本書紀に粉飾されて、あの物語が創作されたものかもしれない。天平の頃までは祖先はこの記事を見ても直ちにその背景の真実を云はず語らずのうちに読みとっていた。*太字はnakagawa
*早鞆星 =天秤座α星、倶楽羅星 =狼座ι星、平壺星 =狼座θ星(『儺の國の星拾遺』p.198~p.199)
星の話として出てくるのだが、これによれば現在の倉良の瀬戸はかつて谷(陸)だったのが雄略天皇の時代に瀬(海)になったという。
だとすれば筑前大島は5世紀半ばまで島ではなく九州本土だったことになる。
「御長手神事」が沖ノ島と辺津宮間のやりとりだったのは、「沖ノ島」対「九州本土」という事だったのかもしれないと思った。(違うか。)
倉良の瀬戸付近の海底地形
大島と神湊が陸続きだとしたらどのような姿になるのだろうと思っていたら、詳しい論文があった。
ここには陸上からのびてきた堅い関門層群が、海峡を横断する極めて顕著なridgeを作って、海底に橋を渡したように筑前大島をつないでいる。このような地質構造が海底地形に顕著にあらわれた例は少ない。
(「地質構造を反映した海底地形の例-倉良瀬戸-」茂木昭夫/『地理学評論』)
海峡を横断する極めて顕著なridgeが陸と大島を繋いでいるそうだ。
上図に陸と海がわかりやすいよう凡例に従って色をつけてみた。
茶色が陸地で水色が海だ。
なんと、鐘崎から地の島もつながる。
鐘崎~地島~大島~神湊がぐるっと繋がり、まるで内海を抱えた良港の様を呈している。
もちろん実際はもっとデコボコしていて複雑だが、これにはびっくり。
筑前大島は戦国時代には宗像氏の詰城・逃げ城だった。
このような地形も有利だったに違いない。
現在も倉良の瀬戸は海底地形が複雑で潮流が強いため航海上の難所とされている。
参考にしたサイト
など。