水城欠堤部の石敷遺構と畦道と落差工

2024/01/04追記
2024年1月1日に起きた能登半島地震では最大4㍍の隆起が観測されており、地形が簡単に変わることが実証された。
本記事は地形が現在と同じと仮定して書いており、水城を貫く警固断層の影響などを考慮していない。
よって記事の内容は間違っている可能性があることを含みおいて読んでいただきたい。

水城の土塁は御笠川の部分が開いている。(以下〝欠堤部〟と表記。)

カシミール3Dで作成(国土地理院地図)

ここにもかつて土塁があったのではないか?という考えが過去にはあったという。
現在のような姿になったのは川の氾濫などで破壊されたためというのだ。

しかし1970年以降の発掘調査によってそれは否定され、水城の欠堤部は築造当時からあったというのが通説になった。

それには1976年6月に発見された石敷遺構の存在もあるだろう。

この遺構は御笠川の旧流路にあたり、レベルが水城基底部とほぼ一致しているとのことで、両者は同時期に造られたと考えられるそうだ。


ではなぜこのようなものが造られたのか。

発掘報告書より引用する。

 さて,この石敷遺構はどのような目的でつくられたのか,その機能について考えてみたい。結論から述べると,これは今日でも河川につくられる洗堰 (あらいぜき) ではなかろうか。洗堰は水流を横切って,川幅いっぱいに石をつめてつくる堰のことで,一般的に次の2つの目的 がある。
①川の流れを変え,または水位や水量を調整する目的。
②潅漑給水の取入口に構築するため。
 「県令須知三」には 「石川の洗堰に六七尺の枕木を一尺間程宛乱に打,石を詰堅めて洗堰したるは何れよりもよく保もつなり」とあり,今回検出した木杭や石敷の状態とよく似ている。水城洗堰の機能として考えられるのは,御笠川をせきとめ堤の内側の施設に水を引き入れる目的が考えられ, 検出遺構のところで述べたように流路に直交して一段と高い石積みはそれを裏付ける。ここで想起されるのは,1976年に九州歴史資料館が東堤西端に近い内側 (太宰府側) について調査した際, 堤に平行して水路を検出している。この水路はおそらく東門の木樋から西へ延長されたものとみられるが,この水路に逆方向の御笠川から水を東へ引き入れた可能性も考えられる。あるいは,従来からある内側「貯水」説に結びつける考えもあろうが,検出した洗堰の規模からみて,それがたとえ原形を保っているとはいえないとしても,小規模にすぎるであろう。せいぜい内側の水路に引水する程度の規模である。
 いずれにしても,検出した水城洗堰は水城の全構造物のなかでの一機能を果たしていたことはまちがいない。

出典:『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』26

これによれば、石敷遺構は洗堰(あらいぜき)であり、その目的は「御笠川をせきとめ堤の内側の施設に水を引き入れる」ためで、規模としては「せいぜい内側の水路に引水する程度」ということだ。

洗堰とは次のようなもので、川幅に比べて高さはあまりなく水量が多いときは越流している。

現地での洗堰のイメージをつかもうと石敷遺構が発見されたあたりに足を運んだが、今では道路がいくつも通っており当時の様子は全くわからなかった。

そこで九州縦貫道が建設される前の航空写真を見てみた。

すると御笠川が土塁と直行するあたりに落差工が見えた。
丸で囲んだ部分だ。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」1961~1969年よりnakagawaが一部切り抜き

同時代の別の航空写真でもこの部分が低くなっていた。

さらによく見ると、この落差工を挟むように特異(注2)な畦道があるのが見えた。
緑色でなぞっている部分である。

国土地理院年度別写真(https://maps.gsi.go.jp/#17/33.518924/130.495423/&base=std&ls=std%7Cort_USA10%7Cort_old10&blend=00&disp=111&lcd=ort_old10&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m)
にnakagawaが書き込み

落差工は現代のものだが、元々この部分に段差があったとすればそれは石敷遺構と関係しているのかもしれないと思える。
場所が近接しているからだ。

そしてこの特異な畔で囲まれた部分が周囲より低ければ、ここに水がたまっていた痕跡の可能性がある。

大きさからすれば立派な貯水池だ。


仮に貯水池があったとすると、何のためだったのだろうか?
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実は、ここまでの話は『太宰府の研究』(高志書院 )を参考に組み立てたものだ。

同書の中で、水城には石敷遺構によって溜められた水を水源とした閘門が設置されており、それを利用して博多湾側からの船が上ってきたと推定されていた。(「水城に関する土木計画・技術・構造的考察」林重徳)

『太宰府の研究』p.311より引用

確かに太宰府には十数棟の倉庫群である「蔵ノ司」があり、大野城には三十棟を越す「兵站蔵」がある。

物資の輸送にはやはり船が第一だろう。

 約20㌔離れた博多から比高20㍍の都府楼まで、人員・物資を大量かつ 迅速に運ぶ手段として、当該地で最も可能性の高いのは運河である。
 大宰府までの運河を想定すると、『万葉集』等に多く詠まれているといわれる「水辺の別れ」の詩も得心される。
 運河は、「学校院」跡から始まり、国分二丁目で左折し、「水城」に至るコースで、角落し式の「多段型閘門式運河(ただんがたこうもんしきうんが)」があったと推定される。

『太宰府の研究』p.311より引用

水運のために閘門が設けられたとしても不思議ではない。

同書によれば、運河は「学校院」跡から始まり「水城」に至るコースだという。

これが天智天皇の工事だとすれば、玄界灘から有明海に船を通したという『儺の國の星拾遺』の話とは違ってくるが、私にはこちらのほうが現実的に思える。


ここでもう一度伝承を振り返ってみる。

天智帝(六六二~六七一)は、かつて筑紫の国造磐井(四一八~五二八)がひらいた水城なる瀦水畓を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替える大工事をされた。

(『儺の國の星拾遺』p.140)

私が考えるに、磐井がひらいたときの水城は欠堤部が無い連続した土塁だったのかもしれない。(ただし余水吐きはどこかにあったと思う。)

それを天智天皇が、石敷遺構があったあたりを崩して開口し、太宰府までの運河を通したのではないだろうか。

その話がいつの間にか「玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖」となったのではないかと思った。

あるいは石敷遺構と閘門工事の話が、かつて玄界灘と有明海が繋がっていた話と混交して「玄界灘から有明海に疎水式に船を通」したことになったのかもしれない。

欠堤部が天智天皇の水城築堤時のものであれば、推測しうる洗堰の高さでは湖と言えるほどの水面にはならない。

よって「玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖」はあり得ないのだ。


試しに想定(注2)される洗堰の高さ(現在の水城基底部より1.5mほど)で水位を上げてみると次のようになった。

海面上昇シミュレーションによる
(カシミール3Dスーパー地形で作成)

水色部分が御笠川の水がおよんでいる箇所だが、見ての通り「特異な畦道」に沿って冠水している。

『太宰府の研究』で推定されているとおりの結果だ。

ただし〝水城は後宇多帝の時の台風で修復不能になった〟という伝承もあり、それが正しければ溜められた水の範囲はもっと広かったと思われるが、いずれにしても石敷遺構が天智天皇築堤当初からあったなら、水城は博多湾から有明海に疎水式に船を通すほどの巨大な湖にはなり得ないことがわかる。

(今まで土塁の高さで満水だと仮定してあれこれ考えていたが、これもあり得ない話となってしまった。)

もちろん有明海側にも閘門式運河があったのなら別だ。

また疎水式に船を通す運河を、針摺峠を越えて有明海まで掘った可能性もある。
(ただしその場合水城より高い場所に水源が必要。そのことについては伝承には書かれていない。)

あるいは水路を遡上する方法として、当時一般的だったであろう〝曳き舟〟が用いられたかもしれない。
(明治時代までは朝倉街道付近あたりに曳舟で行っていたそうだ。)

石敷遺構に関わる工事をしたのが天智帝ではない事も考えられるので、これはやはり口伝の限界が現れたのかもしれないと思う。


林氏の論を読んだ上での私の結論は、
「天智帝は磐井がひらいた水城を疎水式に船を通す湖にした」
というよりも
「天智帝は磐井がひらいた水城土塁に閘門を設け、疎水式に船を通す水路を作った」
が実態に近いのではないかと思う。

ただしこの話が覆る遺構が見つかればまた変わることになる。

水源も、高雄山から流れていた川があった可能性もある。

伝承は伝承として受け止めておきたい。


なお私がこれまで書いた水城に関する過去記事は、石敷遺構を考えた場合あり得ない話になってしまうが、文末に補足文を掲載しそのままにしておくことにした。

注1:アイキャッチ画像の出典:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」1961~1969年
注2:〝水城は後宇多帝の時の台風で修復不能になった〟という伝承が正しければ、特異な畦道は当時はなく、洗堰で溜められた水の範囲はもっと広かったと思われる。