確かなのは天智天皇が水城を改造したことだけかもしれない

天智天皇が水城を疎水式に船を通す湖に切り替えたとして、現在の水城土塁の高さは分水界の標高より低いため、玄界灘から有明海に船で行くには更に高い場所に水源が必要だ。

と言うのが前回の話だった。

*分水界=筑紫野市針摺付近にある博多湾へ流れる河川と有明海へ流れる河川の境界。

あるいは水城水面の高さで切り通し、水路を開くことで船を通したのかもしれない。

その場合、現在の地形で考えると、水城水面と同じ標高なのは筑紫野市常松付近となる。

直線で約5km、切り通し面の高低差最大10mの水路となるが、これはこれで大工事だ。

当時の地形がわからないのでなんとも言えないが、この方法より山口川を使った方が効率が良さそうだ。(前記事参照)


天智天皇の疎水工事に関する話は、具体的に考えていくと疑問が色々出てくる。

水城水面より分水界の方が標高が高いこともそうだが、そもそも水城が満水だったとしたら閘門にかかる水圧はものすごいものになるだろう。

そんな圧力に耐えられる水門が作れたのか?

また、有明海から船が上ってくるときはどうしたのか?

有明海側から上ってくる場合にも高低差を解決する閘門が必要なはずだが、全く触れられていない。

工事の時期もはっきりしない。

百済救援(白村江の戦い)の前なのか後なのかでも事情が変わってくる気がするのだ。


以上から思うに、この話は〝天智天皇が水城を改造した〟事がメインで、それだけが確かなのかもしれない。