最澄と背振山周辺
前記事で紹介した、最澄が猿田彦命を山王として比叡山の日枝神社に祀ったと言う話は、福岡県那珂川市にある日吉神社に伝わるものだ。
また、山岳仏教の地背振山にも最澄に関する話がある。
今回は地元に伝わっている話をまとめてみた。
那珂川市市ノ瀬 日吉神社の由緒
上図の黄緑で囲んだ部分を以下に抜粋。
伝教大師最澄は、延暦二十四(八〇五)唐から帰朝の折に筑紫で最初の天台派寺院たる背振山東門寺を開基いたしました。そしてこれを比叡山延暦寺に移した時にその守護神として、ここの山王神猿田彦命を勧請して彼の地に日枝神社を創建したと言う伝説が残っております。
昭和五十二年七月二十五日
また、『那珂川の地名考』前編の「日吉神社」の項には次のように書かれている。
神社は四方を展望する景勝の地に鎮座することが多い。しかし、市瀬日吉神社は例外である。昔の段丘たる水田面から二.七〇米下の川床にあり、これから推定すれば二、五一二年前の鎮座となる。創建の年代は不詳で、山城近江の境なる比叡山の日枝神社の発祥の地と伝えられてきた。今は水涸れて空となった池の中に、山王に因んで猿の石像が載せられている。祭神は猿田彦大明神である。天孫降臨の時、稲の種子の来るを知りて、田畑を整え待機した神であり、後に猿女の君等が祖となった。
(『那珂川の地名考』前編 p.15)
ちなみに『福岡県神社誌』によれば那珂川市市ノ瀬の日吉神社の祭神は次の通り。
・天御中主神
・大己貴神
・彦火火出見命
・大山祇神
・八雷神
・菅原神
・埴安神
・宇賀魂神
・高淤加美神
・闇淤加美神
・田心姫命
・迦具土神
・手力雄命
・表筒男命
・底筒男命
・中筒男命
・須佐之男命
・天照大御神
猿田彦命はいらっしゃらない。
なんとも不思議な由緒ではある。
背振山と最澄
延暦23 (804) 最澄上人、入唐求法の折、海上安全祈願のため背振山に入山。
延暦24 (805) 最澄上人、中国より帰国後、顕密弘通の為に中宮に講堂、龍樹堂、乙天の宮殿を建立。下宮に薬師如来を彫刻し安置する。「谷山薬師」乙護法堂の建立については、最澄上人(天台宗宗祖)によるといわれています。平安の頃、最澄上人は中国に渡る際に、海上安全を祈り背振山に登山されました。そのとき、乙護法善神が出現し、唐へ一緒についていったといわれています。
日本へ無事にもどられた最澄上人は、背振山の中宮に講堂(僧侶の勉強の場)・龍樹堂(龍樹菩薩を祀るお堂)・乙護法堂を建立したといわれています。
現在のお堂は、嘉永5年(1852)十代藩主鍋島直正公によって再建されたもので、霊仙寺に唯一残る貴重なお堂です。<吉野ヶ里町文化財>
修学院のウェブサイトによると、最澄は804年に航海の安全を祈願するため背振山に登山したという。
そして1年後に帰国し、805年に顕密弘通の為に中宮に講堂、龍樹堂、乙天の宮殿を建立、また下宮に薬師如来を彫刻し安置したとのこと。(現在の「谷山薬師」)
遣唐使として803年に難波を発った最澄は国内で難破し、渡海船が整うまで1年間筑紫に滞在していた。
よって804年に安全祈願をしたというのは頷ける話だが、805年に背振山にいくつかのお堂を建立したというのはどうだろう。
『叡山大師伝』などによると、帰国便が対馬に着いたのが805年6月5日となっている。
帰国後はすぐに京へ上っており、桓武天皇の病状が思わしくなかったことで祈祷などを行っている。
また、持ち帰った経典の書写も大急ぎでなされた。
そういう出来事があった中で、実質半年しかない805年に背振山の堂宇を整える余裕があったとは思えない。
最澄の指示だったことを「最澄が建立した」と表現したのかもしれないが。
その他
個人的に気になっているのは、六所宝塔が宝満山に設置されたことだ。
最澄が国家安泰・仏法興隆・国民安楽を祈念するための拠点として、全国の六カ所に塔の建立を企画したものである。
同じ天台宗寺院であれば最澄は権威の象徴だっただろう。
その
つまり、六所宝塔に代表される〝権威〟に対抗するものとして「延暦寺は背振東門寺を持って行ったものだ」と言う話が生まれたのではないか、と思ったのだ。
というのも、背振山岳寺院の歴史をいろいろ見ていると、嘉保3年(966)に、背振山の睿恒聖人が「図彼野御山北坂本為建立下宮并堂舎」と依頼していることがわかったからだ。
嘉保3(1096)6・29 脊振山上宮住僧睿恒聖人、大蔵種房私領(脇山院)を比叡山坂本のように、下宮堂舎を建立し、殺生禁断の仏地として僧侶を住まわしめ、天下安穏を祈らしめんが為、寄進を種房に依頼。種房四至を限り、狩野である私領を施入する
四至 東 鳥越
西 持井広瀬大隈長峯松
南 □□□□
北 河
「嘉保年中睿恒 講堂三所鎮主九間之拝殿並年中御供講行灯油等之免田被相定所
也、就夫堀河院勅請無相違、山領被相伏畢」(修学院文書)(『福岡県営五ヶ山ダム関係文化財調査報告I』p.112)
「図彼野御山北坂本為建立下宮并堂舎」とは「御山(=比叡山)における坂本地区のように下宮と堂舎を建立したい」ということだ。
比叡山に近づきたいという願いは、裏を返せばそうではない現実があると言うことではないだろうか。
個人的には、背振山や那珂川市日吉神社における最澄関連の話は、後世の付会のような気がしている。