『史記-封禅書』にメトン周期のことが書かれている
しばしば登場するメトン周期の単位〝推〟。
漢字〝推〟がなぜメトン周期を意味するのか不思議だったが、その理由を『史記-封禅書』に見つけたので紹介したい。
【原文】
黃帝迎日推策,後率二十歲復朔旦冬至,凡二十推,三百八十年(後略)
『史記-書-封禪書』中國哲學書電子化計劃より引用【書き下し】
黄帝 日を迎へ策を推す、後 率ね二十歳にして復た朔旦冬至なり、凡そ二十推、三百八十年(後略)nakagawa
ここには「黃帝が日を迎え策を推した後およそ20年で再び朔旦冬至になった」ことと、「20推が380年である」ことが書かれている。
20推が380年ならば、単純計算(380÷20=19)で1推は19年になる。確かにメトン周期。
だから〝推〟が用いられているのだ。となるわけだが、私としてはもう少し細かく見ていきたい。
うまくまとめられないので、箇条書きにする。
1、黄帝とは
〝黄帝〟は紀元前2700年~2600年頃の人物とされる、中国古代の伝説上の帝王だ。
三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。
衣服・貨幣・暦・医薬・音律などを定めたという。
メトン周期は紀元前433年にギリシャの数学者メトンが提唱したとされているが、『史記』に従えば黄帝の時代(紀元前27世紀~26世紀)には知られていたことになる。
中国古代の天文学がなかなかのものだったのが、この「黄帝」でわかるというわけだ。
筆者によればギリシャがこの暦法を採用したのだそうだ。
この年はかってギリシャに極東の章法が暦法に採用された紀元前四三五年から四十推七百六十年目にあたる。
(『儺の國の星』p.46)
なお『儺の國の星』では、メトン周期の発祥は紀元前1401年としている。
東洋での発祥はいつの頃か不明でありますが暦元の算方から推定しますと、西暦紀元前一四〇一年庚子が考えられます。
(『儺の國の星』p.44)
「暦元の算方から推定」とあるので計算上の結果だが、早ければ紀元前1401年、遅くとも『史記』の頃には知られていたと思われる。
2、「迎日推策」とは算木を用いた天文計算か
「迎日推策」の〝迎日〟は〝日月朔望などを数える〟の意味で、〝推〟はあれこれ考えること、〝策〟は占いや数をかぞえる際に用いる蓍と言う植物の茎のことだそうだ。(『新釈漢文大系』明治書院より)
蓍とは聞き慣れない植物だが、木質でまっすぐに伸びる性質があるという。
金属製のナイフなどが身近に無かった時代は真っ直ぐな細い棒を作り出すのは手間がかかっただろう。
だから手を加えずともこのような形に生育する蓍は重宝されたと思われる。
蓍は後世には竹で代用されるようになり、現在私たちが知る(
どうやら木質で真っ直ぐであることが重要だったようだ。
そこで思ったのが、「推策」とは今で言う算木を用いた計算ではなかったかと言うこと。
次図は「孫子算経」における割り算のやり方だが、真っ直ぐな棒を縦と横に組み合わせて計算しているのがわかる。
算木を用いてあれこれ〝推〟し量ったところから、メトン周期の単位である〝推〟が生まれたと考えた。
3、朔旦冬至
黄帝は何を〝推〟しはかった(計算した)のか。
「後率ね二十歳にして、復た朔旦冬至なり(その後およそ二十年で再び朔旦冬至になった)」とあるので、どうやら次の朔旦冬至を計算したようである。
〝朔旦冬至〟とは太陰暦の元旦と冬至が重なる日だ。天体の動きとしては太陽の位置が一番南になる日と新月が重なることになる。
以前の記事にも書いたが、地球は約365.2日で太陽の周りを一周する。その間に月は約29.5日で地球の周りを一周している。
人の生活に沿う暦になるように、このズレを調整する必要がある。
それには太陽と月の運行のどこかに基準点を設けるのがよい。
計算上は一年のうちの任意の日でいいのだが、やはり冬至や夏至・春分秋分といった日が視覚的にもわかりやすい。
黄帝の時代は冬至が基準だったようだ。
それが〝後率二十歲復朔旦冬至〟なのだと思った。
以上、『史記-封禅書』に書かれていたことについてつらつらと思うことを述べてみた。