中臣氏-それは欧亜を往来する民族が漢人に長く同化した系統かもしれない
昔、天山南路の中に鄯善(前一三九~後六三五)なる國が栄えた。隊商の憩う街であった。
欧亜を往来する民族を単于という。後にこれが極東に定着する頃は燕(前一一二二~二二二)の世に入ってからのことであった。即ち故郷をもたぬ流浪の民族を漢人は単于北狄と一括した。あきらかに東人でもなければ西人でもない中間の民族の素性を表現した言葉が、単于であり鄯善であった。
漢人に長く同化した子孫を仲姜という。察するにこの系統を倭人は中臣氏とよんでいたのかもしれない。その伝統が春分を元旦とするところからみるとScythai人であったことだけは推定できる。(『儺の國の星拾遺』p.131)
鄯善もしくは単于というのは、欧亜を往来する民族の呼称だという。
だとすれば、シルクロードの交易都市〝楼蘭〟が、漢の支配下に置かれたとき〝鄯善〟に改称されたのは、民族名を採ったことになる。
【1世紀~3世紀頃の鄯善国の地図】
その「漢人に長く同化した子孫」が中臣氏だという。
漢人は「仲姜」といい、倭人は「中臣」と呼んだと書かれいる。
そうすると、「中臣」は「仲姜」の和訳ということなのだろうか??
中臣氏が西域からやってきた渡来人で、春分元旦の風習を持ち獅子座を尊重する民族だとは、何とも不思議な話だ。
ところで漢民族がなぜ楼蘭の民を「鄯善」と呼んだか、その由来と思われる記述もある。
獅子座を中東の古代帝国は利(刀)鎌に見たてていた。一切の罪悪を消滅する象徴であって、時には獅子神像、又時には修祓の拂子となった。鎌を英語でsickle、その古語はscythe、独語でsensenという。
(『儺の國の星拾遺』p.130)
獅子座の頭の部分の星をつないで鎌に見立て、「獅子の大鎌」と言う。
この「鎌」を意味するドイツ語がsensenであることから、獅子座を春分の星として尊重する人々を「鄯善」と言ったと言うのだ。(ダジャレ?)
春分を元旦としていたことから、さらなるルーツはスキタイ人になるそうだ。
(ただし、別のページではフェニキア人と書かれ、さらに別のページでは姜人の故郷はシュメールと。要するに地中海~黒海付近の出自と言うことか。)
中臣氏に関しては、『儺の國の星拾遺』p.109では「羌人」とも表記している。
羌人なら尚更、中臣氏のルーツは西方の人ということになる。
面白い話である。
ちなみに燕と言う國は、時代によって勢力範囲が拡大したり縮小したりしているが、戦国時代は斉と隣り合って渤海湾に面していた。
首都は
By Philg88 – 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link
シルクロードを経由した陸路の実質的な終着点が斉の臨淄で、新天地を求めた人々は燕を経由して朝鮮半島へ行きさらに海を渡った。
内陸から東へ東へと移動した結果海に行き当たり、足止めされる土地だったとも言える。
余談になるが、文中に登場する〝故郷を持たずアジアとヨーロッパを流浪する民族〟については、楼蘭から100kmほどのところにある小河墓遺跡に眠る人たちを思い起こす。
4000~3000 年前の青銅器時代の遺跡だが、明らかに漢民族とは違う民族が眠っている。
周代以前に欧亞を流浪していた氏族がいたという傍証になる。
太古から人は行き来し合っていて、日本にもやって来ていたのだ。
荒唐無稽に思われる話でもそれなりの背景を持っている、と言えそうだ。