天智天皇が水城を疎水式の運河に切り替えたとして・・・それだけでは有明海に届かない

天智天皇は水城を玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替えたという。

天智帝(六六二~六七一)は、かつて筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)(四一八~五二八)がひらいた水城なる瀦水畓(ちょすゐたう)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替える大工事をされた。

(『儺の國の星拾遺』p.140)


水城が船を通す湖であったなら、それはパナマ運河におけるガトゥン湖のようなものだったのではないか、と前記事で書いた。

しかし地図をよく見ると、むしろミラフローレス湖に近い。

なぜならガトゥン湖は最高点に有り太平洋と大西洋の両方へ水を流すことが出来るが、水城はそうではないからだ。

ガトゥン湖より低い位置にあるミラフローレス湖

現在の水城土塁の高さで満水だとしても水面の標高は約30m、分水界の標高が約40mなのでその差10mを解決するには更に高い場所に水源が必要だ。(土塁が現在より高かったことも考えられるので一概に言えないが。)

水城の水面より分水界の方が高い

分水界付近を拡大してみると、筑紫野市古賀付近に流れている山口川(筑後川水系)の標高が高いことに気づく。

しかも御笠川水系の川と500mほどしか離れていない。

もし本当に玄界灘から有明海へ船を通すのであれば、山口川を利用するのが現実的だと思った。

例えば山口川(筑後川水系)と鷺田川支流(御笠川水系)を水路で繋ぐ、あるいは両方の川を繋ぐ形で運河用の池を作るなどである。

地形が現在と同じと仮定しての話なので、実際は違うかもしれない。

だが天智天皇の時代の分水界の標高が現在より低かったとしても、玄界灘から有明海に船を通すのには水城の水だけでは無理だと思う。

有明海側が水城の水面標高と同じ高さになるのは筑紫野市常松あたりで、水路で繋ぐには深さ最大10mの溝を約3~5km掘らなければならない計算になるからだ。

地形は変わるので、分水界付近にかつては深い谷があったのかもしれないが・・・。

天智天皇の工事とはいったいどのようなものだったのか、ますます疑問が湧いてくるのだった。