皇太子はいつの世も天皇に奉るべき暦書の編纂と暦日の観測が業務だった
太子星の名もあった。中世は上人の托鉢の椀の形を想像し、佛壇に供うべき器に見たてたかもしれない。又皇太子はいつの世も天皇に奉るべき暦書の編纂と暦日の観測が業務であった。この星が登る頃は立春であり、又春分であった。
(『儺の國の星拾遺』p.131)
中轅星(獅子座δ星Duhr)の続きだが、獅子座の前半身である〝獅子の大鎌〟部分が紛れ込んでいる。
これでは獅子座δ星Duhrを〝太子星〟と言うのか、鎌の碗状部分を〝太子星〟と言うのかわかり辛い。
本書はしばしば、単体か星団か曖昧なことがあるのでどちらとも言い切れないところだ。
ともかく「太子星」の名は「皇太子の業務に暦書の編纂と暦日の観測があり、獅子座が暦の基準となる星」であることと関連しているとのこと。
本書の別の箇所では、暦の編纂を受け継ぐから皇太子のことを「日嗣の御子」と言う旨の記述が有り、皇太子と暦は深く結びついた事柄だったようだ。
そしてその観測は「天皇に奉るべき暦書」と「暦日」を目的としている。
暦書の最終的な責任者は天皇と言うことになる。