筑紫国造磐井がひらいた水城なる瀦水畓とは

福岡県太宰府市と大野城市にまたがる水城は、もともと筑紫国造磐井がひらいた瀦水畓だという話を紹介した。

この瀦水畓は単なる灌漑用水ではなかったことが書かれている。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手かみて下手しもての二つに別けて、その堺の狭くくびれたところを仕切って、ここに堤と閘門を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑こがになると、そこに晩生の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。この農法は今も大陸では保存されており、瀦水畓ちょすゐたうと今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを〝ゐみづ〟或は〝いほと〟といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸いわとも、かつての瀦水畓の和訓を教える地名である。唐門からとがひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水田いみりたといった。

(『儺の國の星拾遺』p.140)

何とも大胆な三期二毛作(麦・米・米)のための瀦水畓だったのだ。

その作業を冬から始めるとして整理すると、

    一期目は冬、堤防の上流域が貯水池で下流域が麦畑。

    二期目は初夏、麦を刈り入れたあとその場所に貯水池の水を少しずつ流し入れて早稲田(水田)にした。

    三期目は中夏、水を流して湖底が現れた貯水池に晩生の陸稲を植えた。

となる。



上に書いた二期目の作業は、今の暦で言えば6月頃水門を開き、麦畑だった下流の土地が水に浸ると早稲を植え、7~8月頃堤の下流に早稲が成長している感じだろうか。(田が水に浸るだけならそう時間はかからないので早稲はすぐに植えられたと思う。私が筑後平野で見た例は、午前に田の水口が湿り始め夕方には全体に広がっていた。)

上流に水がなくなると陸稲を植えたと思われる。

この瀦水畓のことを天平時代頃〝ゐみづ〟〝いほと〟と言っていたそうだ。(現代の発音にすると〝いみず〟〝いおと〟。)

富山の射水(いみず)、筑前那珂川の岩戸(いわと)もこの瀦水畓があった場所とのこと。

別のページ(ページ数メモし忘れ)に、「稲作は北陸にもたらされた」と言う話があるので、それと関係しているのかもしれない。


続き。

瀦水畓ちょすゐたう上田かみだともいった。水雪田みなつきだ、或は水盡みなつき(空)ともいった。ゆきの古語は〝つき〟であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。夏分は下田しもだに水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水無月みなつきの由来がここにあった。そして水漬星みなつきぼしの名がここに生まれた。百姓がみな、簑をつけて水につききりの四ケ月であった。

(『儺の国の星拾遺』p.141)

なんと「水城」の由来は、

    ・冬に瀦水が凍結していることから来た「水雪みなつき
    ・農作業中はずっと水に漬かることから来た「水漬みづき
    ・貯水池から水がなくなる「水盡みなつき

とのこと。

もしそうなら元々農作業に関する「みづき」という言葉があったところへ、構造物としての「水城」という言葉が被さったことになる。

が、本当だろうか。。

いずれにしても、一年中何かしら栽培しており水の管理が重要だったことがわかる。

確かに休む暇が無かっただろうと思った。


さらに言うと、「みづき」の登場は氷河期以前に遡るという話もある。

人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は、氷河期以前にあったらしい。水と雪を堰き止める堤の工事現場から出た炭は、肥前三根で二万三千五百年前と推定される。今も堤を水城みづきという。昔は〝みなつき〟であって、〝つき〟は築ではなく雪であったはずになる。氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であって、その勢は一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。

(『儺の国の星拾遺』p.141)

太字はnakagawa

水城は元々氷河期に山からの雪解け水が鉄砲水となって麓に押し寄せるのを緩和するための、いわば土(雪)留めだったと言う。

それが氷河期の終わりと共に本来の役目が不要となり、段々畑のような地形が耕作に用いられるようになったとのこと。

確かに肥前三根にも土塁がある。(発掘調査報告書を探したが見つけられなかったので、二万三千五百年前の炭が出土しているかは確認できていない。)


しかし磐井が築いた水城は、雪解け水を堰き止めるようなものではない。

このあたりの事情が『儺の國の星拾遺』p.105に書かれている。

『儺の國の星拾遺』p.105より引用

これによれば、磐井の工事には次の二つの理由があったようだ。

    1、「裂田(うなで)の勢は新開の那珂板付あたりに及ぶべき水勢減少していた」ため、補給する必要があった。

    2、雄略帝の時に起きた水害により土砂が堆積し干潟が広がったが、石堂川(御笠川の河口付近の名称)を中心に粕屋一帯を灌漑することで耕作地にしようとした。

1、は初めて聞く話だ。

現在の裂田溝は那珂川にある一の井手から取水し、安徳台の南北で250haほどを灌漑したあと再び那珂川に合流している。

試しに裂田溝が那珂板付まで届いていた場合の想像図を地図に書き込んでみたが(下図黄色い点線部分)、すぐに梶原川にぶつかるので直接那珂板付まで流れていたとは考えにくい。

敢えて裂田溝を利用せずとも地形的に牛頸山・矢岳からの流水路は別にあったと思われるからだ。(もしかすると裂田溝から中継池を経由していた可能性もあり、当時梶原川があったかわからないのであくまでも仮定である。)



これに関連して、春日市教育委員会の発掘調査では那珂板付あたりを潤していたのは諸岡川で、流域には弥生時代の遺跡が多いと聞いた。

おそらくどこかで合流しながら最終的に那珂板付地域を潤す水源の一つとして働いていたのではないだろうか、それを「新開の那珂板付あたりに及ぶべき」と表現したのは作者流のレトリックではないだろうか。

2、については、おそらくこれが磐井の本来の目的であったと思う。

〝新開〟とは埋め立て地・干拓地を言うが、河川がないので水源を確保し流路を整える必要がある。

そのための水城(堤防)だったようだ。

「粕屋一体」とあるのは井野山から東平尾にかけての丘陵地帯の西側、現在の糟屋郡志免町と福岡市博多区と東区を中心とした地域のことだろう。(下図参照)

この話が本当なら大がかりな食料増産計画だったことになる。

どこかに痕跡があれば興味深いが、水城は敏達帝(574年)の時に台風で壊れ、後宇多帝の時(1281年)の台風で修復不能になり忘れ去られていったという。

また天智天皇が改修し元寇の時も改修されているので、磐井の工事の跡は残っていないのかもしれない。

水城と裂田溝と新開の那珂板付の関係
「川だけ地形地図」にて作成
国土地理院地図使用

水城の歴史を時系列に並べてみた。

1、磐井が築造
   ↓
2、敏達帝の時に台風で壊滅
   ↓
3、天智天皇が再利用
   ↓
4、文永の役で利用(『八幡愚童訓』)
   ↓
5、後宇多帝の時台風で修復不能になる。この時の台風で同時に弘安の役に勝利?

もしこれが本当なら、天智天皇が短い工期で水城を作れたのも納得だが、果たしてどうだろうか。

水城は知りたいテーマなのでもう少しこの話を続けたいと思う。