天智帝は磐井がひらいた水城を疎水式に船を通す湖にした(追記有り)
2022/11/27追記 水城欠堤部の石敷遺構と畦道と落差工に書いたが、水城の欠堤部は築造当時からあったと言うことで、土塁の高さで満水になることはあり得ない事がわかった。 この話はあくまでも〝伝承〟の紹介としてお読みいただきたい。 |
2024/01/04追記 2024年1月1日に能登半島地震が起きた。垂直方向に最大4㍍の隆起が観測されており、湊では海底が露出している。 水城は警固断層が貫いており地殻変動の影響を受けている可能性も否定できないが、この記事ではそこまで考慮できていないことをご承知いただきたい。 |
水城は筑紫国造磐井がひらいた瀦水畓だった、という話を紹介したが、天智天皇はこれを疎水式に船を通す湖にしたという。
天智帝(六六二~六七一)は、かつて筑紫の国造磐井(四一八~五二八)がひらいた水城なる瀦水畓を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替える大工事をされた。
(『儺の國の星拾遺』p.140)
玄界灘から有明海まで、水城を経由して船が通れるよう運河を造ったというのだ。
おそらく玄界灘から博多湾に入り、御笠川を遡上して水城に至り、筑後川水系を利用して有明海へ至るルートだったと思われる。
だが次の水系図を見てわかるように、筑紫野市針摺付近に分水界があり二つの川は繋がっていない。
私は天智帝が行った工事はこの分水界を水路で繋ぐものだったのではないかと思う。
ただ、そのためには解決しなければならない標高差がある。
次の図は現在の御笠川河道と宝満川・筑後川の河道を繋いだものだ。(分水界があるあたりは地形図の最も低い土地をひろった。)
実際は海がもっと陸に入り込んでいたと思われるが、これを予想航路(仮)とする。
カシミール3Dでこのラインの標高を表示してみた。
地形が現在と同じだと仮定すると針摺付近の標高が40mほどあり、舟はこれを越えなければならない。
川岸からロープで引く方法(曳船)もあるが、ここを越える工夫が「船を通す湖」だったのではないかと考えた。
つまり、パナマ運河におけるガトゥン湖だ。(後注)
高いところに水源(湖)があれば、閘門を設けることで船は上下移動が可能になる。
パナマ運河の閘門は大規模なものだが、天智帝が工事した閘門はもっと小規模なものだっただろう。
それに近いのではないかと思う例が埼玉にある。
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見沼通船堀だ。(筑紫の古代氏族
動画では閘門の上流側に板を落とし、流れて来た板をうまく水門に嵌め、少しずつ水位を上げて船を通している。
閘門開閉の原理は簡単で、すべて人力で行われており、これなら天智帝の時代でも可能だっただろう。
閘門式運河の技術は普通に船越の方法としてあったのかもしれない。
これとは別に、私は天智帝が京杭大運河を知っていたのではないかと思っている。
天智帝だけでなく当時の人は煬帝が610年に完成させた工事を聞き及んでいたと思うのだ。
だから水城を疎水式の運河にすると言う発想も生まれたのだと思った。
『儺の國の星・拾遺』が伝える伝承が本当だとすれば、だが。
後注:実際はガトゥン湖よりミラフローレス湖に近い。