葦舟を〝あさくら〟といった 

〝あさ・くら〟とは丸木舟文化から見た表現かもしれないと思う

エジプトのパピルス舟が古代日本にもあったという話の続きです。

材料のパピルス三稜篠みはらのしのといい、信濃高原の湖沼地帯や筑後三原にたくさん生えていたとのことでした。

信濃の湖沼地帯では、人が乗る間があるような大型のパピルス舟が往来していましたが、筑後三原の方は、大型舟ではなく底の浅い船が往来していたようです。

そして、その舟を〝あさくら〟と言ったとのことです。

 葦舟を〝あさくら〟と言った。〝あさつま〟とは干潟の古名である。古くは〝あちす〟とよび、そこに繁る〝みはらのあし〟を組んで作った船が〝あしくり〟であった。

(『儺の國の星拾遺』p.161)

文面から察するに、〝あさくら〟の〝あさ〟は、干潟を意味する〝あさつま〟から来ているようです。

では〝あさくら〟の〝くら〟は何かというと、これは舟の古名とのこと。

舟の古名は〝から、かり、かる、かれ、かろ〟或は〝くら、くり、くる、くれ、くろ〟などがあり、その昔は〝はら、はり、はる、はれ、はろ〟なども数え挙げられたときく。

(『儺の國の星拾遺』p.161)

なんだか動詞の五段活用みたいですが、当時の人にとって正確な発音が困難だったか、発音に合う文字が無かったため、表記が揺れているのでしょう。

よって、〝あさくら〟とは、「干潟を移動する舟」くらいの意味になるでしょうか。

他に〝あしくり〟とも呼んでいます。

〝あし〟は材料の〝みはらのあし〟からとったものでしょう。

用途や材料に着目した呼び名があったのですね。

〝くら・くり〟をはじめとする五段活用のような語は、すべて舟の古名でした。

ちょっと話は飛びますが、小さい子が水上を行く乗り物を見たらとりあえず普通名詞で「船だ」と言うのではないでしょうか。

それが「タンカーだ」「漁船だ」「ヨットだ」となるのは、「船」という概念では用が足せない時だと思います。

〝あさくら・あしくり〟も似たような所から生まれた言葉ではないかと思われました。

単にくら・くり(とせず、わざわざ語頭に〝あさ・あし〟を付けたのは、やはりパピルスで作った舟が他とは違っていたからだと思います。

もっと言うなら、パピルス 舟を〝あさくら・あしくり〟と呼んだ人達には、それまで葦舟の文化が無かったのかもしれません。

この本の別の箇所に、五段活用のようなこれらの語は、丸木を利用した刳舟くりぶねを言う外来語と受けとれる記述があります。

〝あさくら〟という名称は、丸木舟文化から見たパピルス舟の呼称ではないかと私には思えるのです。

海が後退していく中で干潟が出来、パピルスが生える環境になってパピルス 舟が登場したと考えました。

あるいは、伝承の中の技術だったものが環境の変化とともに復活したとも考えられます。

いずれにしてもこの地には、舟一つとっても様々な文化が入ってきていたようです。

ここからは個人的な感想になりますが、「あさくら」「舟」のワードから、筑前町にある砥上観音塚古墳の壁画がしきりに思い出されました。
奥壁にたくさんの舟が書かれた古墳です。

次はこの話を書こうと思います。

織姫様に会いに(久留米市)
  & 
『儺の國の星・拾遺』より七夕に関する記述を少し

織姫様に会いに久留米へ行きました。

手にしているのはおさ
胸元から垂らしている布は高麗のノリゲのようにも見えました。
この地に連れてこられた織姫の故郷の衣装なのでしょうか。

けれど襟元は小さめの立て襟で洋風です。
そのせいか、ぱっと見マリア様にも見えました。

ん?もしかしてノリゲじゃ無くてリボンタイ??
襟から続いてるスタイル??

頭から布を被ったような姿と宝髻のようなふくらみは、仏像的な雰囲気もありますね。

とはいえ、なんと言っても一番の特徴は燦然と輝く額の星。
私には、ベガ(織女星)の具現に思えます。

ここはTさんに教えていただきました。
地元の方が大切にしていることが伝わる心あたたまる場所でした。
行ってよかったです。
教えて下さってありがとうございました。

話は変わりまして。

本日2020年8月25日は旧暦7月7日です。

『儺の國の星・拾遺』から、七夕に関する記述を紹介します。

 七夕は元来は織女だけで、漢人は収陰と書いた。冬至の夜、一年でもっとも闇の深いときに大地にかゝるからである。女人は織女が北辰が巡る角度をみはからって、冬の夜業よなべ仕事に精を出した。七夕が時により所により妙見或は斗極七星のことにもなる所以である。そしてこの夜の食膳に干瓜*かぼちゃを供える儀式が今も続いているのである。〝たな〟は〝なな〟即ち七、〝ばた〟はBinthanビンタン即ち星で、いずれも胡人の訛である。冬至の除夜祭を昔は〝たなばたまつり〟と云った。今は略して〝はなまつり〟と呼び、信濃伊那にその行事がのこる。〝はな〟は初一を示す高麗の古詞でもあった。

(『儺の國の星』序)

*南瓜の誤字か。

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七夕即ち〝たなばた〟とは、**に懸る機帯はたおびのことであります。織女が天頂に上る七夕の頃に、稲の水祭みずまつりを行った古い習慣が、今の星座に変わりました。

(『儺の國の星』p.29)

**天に懸る機帯=天の川のこと

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七夕の名の由来はおそらく三千年の昔にさかのぼってあらゆる氏族が思い思いの伝説を創作したあとで、唐(六一八~九〇七)の時代に編輯されたものと思はれる。

(『儺の國の星』p.98)

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一年に一度の七夕の愛が一つに灼熱して柑子星かうじぼしになると語られました。 (中略)柑子星かうじぼしを明神と祈り、あか
(阿伽)星あかのほしと崇めた頃は鎌倉(一一九二~一三三三)の世でありました。

(『儺の國の星』p.104)

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織女はあたかも北辰が妙見信仰の対象となっていると同じく古代ははるかに強烈な女人思慕の尊崇の中心であったから、その遺風がいまだに七夕の宵に余韻を残しているのである。VegaベガPolarisポラリスの間隔は五〇度二一・七分であり、ほぼ全天三六〇度の七分の一に当たる。これが七月七日の七夕の由来の一つであった。

(『儺の國の星拾遺』p.92)

まだほかにも七夕に関する記述がありますが、主なものを書き出してみました。

七夕が冬の行事で、冬至の南瓜の由来とはびっくりです。

七夕菓子

いつの間にか8月7日になっていました。

旧暦では今年の七夕は8月25日ですが、一月遅れの今日行う地域もあるようです。

道の駅原鶴でこんなお菓子を見つけました。

杷木神社近くにある熊谷菓子舗さんが作っておられるようです。

うきは市吉井町のお菓子屋さんにもあったような気がするので、このあたりの文化なのでしょうか。

彦星と書かれた麦菓子(ちょっと固めの丸ボーロのような生地)。

筆を模した砂糖菓子。

かわいいです。

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