田主丸町二田(ふたた)の月読神社(久留米市)①

久留米市田主丸町益生田187−1に月読神社がある。(以下二田(ふたた)月読神社。)




参道正面の鳥居。



拝殿正面。

明治13年に田主丸町の中心部に遷移(移転)しており、今は遷移(移転)先の月読神社(以下東町月読神社)の資料しか由緒を知る手立てがない。

二田公民館にあった月読神社の説明書



その東町月読神社の由緒書きによると、神社は元々御原郡の高橋城にあったとのこと。

御原郡は現在の小郡市・三井郡大刀洗町あたりの地名で、高橋城の址が大刀洗町下高橋にある。

大刀洗町下高橋付近の地図。

ただ高橋城の場所も変遷しており、もとは上高橋にあったそうだ。
ひょっとすると月読神社があったと言う高橋城も、もともとあったという上高橋のほうかもしれない。

大刀洗町上高橋付近の地図。(地図中のポイントは便宜上つけたもの。)



高橋城から二田に移った経緯についてこのような話が伝わっている。

それは城主長種が亡くなる時、月読神社が城内にあると危険ゆえ弟の次郎三郎に神霊を託し城から出した、というものだ。
神霊を託された次郎三郎は入道して全国をめぐり、最終的に二田に安置したとのこと。

背景にあるのは、長種に男子がなかったため大友家臣一萬田親宗を養子にしたことだろう。
一萬田氏はキリシタン大名大友氏の庶家で、当時はキリシタンによる寺社の焼き討ちなどが行われていたご時世。
迫害を心配したと思われる。

だからといってなぜ二田の地だったのか、その理由はわからないが、当時大友氏に敵対していた筑後星野氏の勢力地であり、星野氏が妙見信仰だった事も理由になるかもしれない。

また二田は平安時代の『和名抄』に登場する古い地名でもあり、土地柄として月読神社を受け入れる素地があったかもしれないとも思う。

必然か偶然か、伝承によると月読神社はこんな風に高橋氏の地から二田へやって来たのだった。



なお、二田月読神社に関して別の伝承もあるが今回は割愛する。)


さて話は変わるが、月読神社がもともとあったという三井地区の地図を見ていて気づいたことがある。

上高橋・下高橋地域の近くに赤司八幡宮があるのだ。

そこで赤司八幡宮の止誉比咩縁起に付近が入り海だったと書かれていたのを思い出し、海面上昇シミュレーションで作図してみた。

おもしろいことに赤司八幡宮が海面上になる条件では、上高橋地域は海面上だが下高橋は海面下になった。

高橋城がはじめ上高橋にあったのはこれが理由だったかもしれない。下高橋はすこし土地が低いので当時は築城に適さなかった敵さなかった事が考えられる。

そして地図をよく見ると、かつての入り海沿岸に天体に関係する神社(七夕神社(媛社社)・稲吉老松神社(牽牛社)・赤司八幡(止誉比咩社))があることに気づいた。

中でも赤司八幡宮の旧暦正月の神事は興味深いものがある。
満月の夜、長さ10尺の竿を立てて影の長さを測るのだ。

月読神社は七夕神社・赤司八幡宮と同じ文化圏だったと私には思える。

月読神社もまた月を観測する社だったかもしれないと。

そう思うもう一つの理由が二田月読神社の神紋である。次の記事で詳しく述べている。


▼余談 一萬田氏と今村の教会

高橋長種の嗣子として入った一萬田親宗(高橋鑑種)に大分からついてきたキリシタンは、その後高橋氏の拠点が岩屋城に移っても動かず土着したと思われる。
そして江戸時代には隠れキリシタンとして信仰を守り、明治になって禁教が解かれると信徒であることをカムアウトした。
今その地に鉄川与助設計の今村カトリック教会がある。
もし大友家から嗣子がこなければ今村の教会は存在せず、月読神社は変わらず太刀洗にあったのだろうか。
伝承が本当だとすれば、なんとも不思議な縁である。

Imamura Catholic Church.jpg
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Posted by nakagawa