田主丸町二田 の月読神社(久留米市)②
二田月読神社の続き。
私が注目したのは幔幕の紋だ。
「月に三つ星」となっている。
これは珍しい。
しかも、月の向きに意味があるのならこれは下弦(月齢23~26頃)の月である。
月読神社で月星紋と言えば、私の知る限りでは壱岐の月読神社がそうだ。
しかも壱岐月読神社の幔幕の紋はちょっと変わっている。
見ての通り、月星紋が左右対称になっている。
向かって右が上弦の月に星、左が下弦の月に星である。
まるで新月から満月・満月から有明の月までの様子を表しているようだ。
それで思い出したのが第七十三世武内宿禰と言う竹内睦泰氏の話。
「月の満ち欠けの数だけ月夜見命はいる」というのだが、私は納得でき、「それぞれの月夜見命の一つ一つの氏族がどんどん分かれていく」と言うのもありうると思った。
歳差によって見える星は時代ごとに変わるし、月を読むと言っても方法は一つではないだろう。
鹿児島の月読神社や関東の三日月様などのように、土地土地で違う展開をしたかもしれない。
二田月読神社は壱岐月読神社の系統のように思えるが、神紋が月に三つ星なのは、どこかでオリオンの三つ星信仰が合わさった可能性がありそうだ。
それがいつどこで起きたのかわかれば歴史の理解も進むのだが、二田月読神社の詳細が失われているため今となってはわからない。かえすがえすも残念なことだと思う。
なお、江戸時代の『壊山物語』には、二田月読神社そばを流れる川の上流にある七谷七郎の廟がある滝(現在「七郎ヶ滝」と呼ばれている場所)で月待ちをしていたと書かれていて、これが月読神社と関係あるのではないかとのこと。
『壊山物語』は享保5(1720)年の記録だが、その後寛延2(1749)年に書かれた『寛延記』には二田月読神社は登場していないとのこと。
単に記録漏れなのか一度失われたのか、このあたりもう少し調べてみないとわからないようだ。
なお二田神社の氏子さんにお話を聞いたとき、「七郎ヶ滝」を今も大事にされている事を伺った。
伝統は受け継がれているようだ。
余談になるが最後にこれだけは書いておきたい。
二田月読神社を遷したはずの東町月読神社の神紋は、月星紋ではなく五三桐である。
神仏分離令で求心力を失った寺院の代わりに招致されたのが二田の月読神社だったらしい。
二田の人たちはかなり反対したとのこと。(賛成派と反対派がいて、二田で今も月読神社を奉斎しているのは反対派の人たちの子孫という話も聞いた。)
どうやら権威付けのため神紋も変えられたのではないかと言う気がする。個人の感想で、実際は違うかもしれないが、社殿にやたら龍がいたり灯籠兎がいたり、なんだか仰々しく本来の姿から離れてしまったような気がしている。