太宰府市王城神社の縁起を読みました。
江戸時代に書かれたという新しいものですが、戦国の争乱で記録が焼失したあと一からこれを書くのは大変だったことでしょう。
縁起のはじめは事代主の説明になっており、ほぼ日本書紀の内容をなぞっています。
失われた歴史を日本書紀で補ったのでしょうけれど、かえって本当のことがわからなくなったような気がしました。
もしかすると記紀にはない歴史があったのかもしれないのに。(個人の感想です。)
創建の由来が書かれているあたりを、景色として写しました。
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面白いです。
王城神社の由来以外のことも書かれています。
糟屋郡辺りを田中の庄といい、荒木武彦と言う豪族がいた話も書かれています。
荒木武彦の娘しづ姫は神武天皇の妻となり、蚊田皇子が生まれたとのこと。
それで田中の庄を蚊田県と言うようになったそう。つまり筑紫の蚊田(応神天皇の誕生地とされる場所)。
この縁起では、「宇美」は神武天皇の皇子が生まれた所だから「ウミ」となったのであって、応神天皇はその後の話だというのです。(荒木しづ姫が「五十鈴姫」だという説も。事代主とのゆかりはありそうですけれど、どうなのでしょう。)
とりあえず、こういう話があるという紹介にとどめます。
最後に太宰府市史より「事代主命鎮座の由来」部分を引用してこの項を終わります。
事代主命鎮座の由来を尋ね奉るに神武天皇日向国より御船に召れ東征したまふ、先、筑紫岡水門 に至り給ふ、田中の庄 に、荒木武彦といへる人、武勇の誉れ有けれは、天皇彼に武事をゆたね、東夷を平け天下の平治をなさんが為、武彦が家に行幸有て、軍議を謀らせたまふ、武彦、行幸を祝びかしづき奉り、田中の庄に行在所を建 、(以下略)
(『太宰府市史』民族資料編p.1158)
追記
四王寺山のカルデラを縁取る稜線から北は現在も糟屋郡に属し、中心の平坦部には県の公園事務所や民家があります。
創建当時の王城神社もこのあたりだったのでは?と思っているところです。
王城神社が現在地に遷ったときに田中庄ごと移ったので、今は太宰府市に田中地名があるのでしょうか。
追記
田中の庄の荒木武彦について『新撰姓氏録』に記載がありました。
また整理して記事に出来ればと思います。