語られているのは地名・星名・歳時を介して記憶されてきた話(あるいは理解)

『儺の國の星』を手にした方が星の話だと思って読み始めると、椋の木についての章が続くので面食らうようだ。

なかなか星の話にならないあの長い導入は、それまでの連載『那珂川の歳時月例』や『那珂川の地名考』からの〝那珂川町の地誌〟的流れがあったからではないかと思う。

小さな町の広報誌だ。読者は町の人であることを思えば、身近な年中行事や地元の地名と違う星の話をいきなりするのはどうだろう。
(注:当時は人口2万人ほどの〝筑紫郡那珂川町〟だった。)

わかりやすくまた重要な植物(椋)と星の共通性から入るのは、筆者の配慮ではなかったかと思った。

そういう成立の仕方をしている『儺の國の星』と、続編である『儺の國の星拾遺』であるが、両者は大きな違いがある。

それは前者が「広報なかがわ」に連載された「那珂川の星紀・星辰」を元にしているのに対し、後者は連載を経ずに出版されているということだ。

細かくなるが、真鍋大覚氏による「広報なかがわ」連載の内訳は次の通り。
(連載期間・タイトル・連載回数・出版歴の順)

・昭和49年?月~50年8月?
「那珂川の歳時月例」12?回 (那珂川市図書館が長期休館中のため未確認)
 →51年に『那珂川の歳時月例』として出版

・51年9月~53年3月
「那珂川の地名考」31回 →53年に『那珂川の地名考 前編』として出版

・53年4月~56年3月
「那珂川の星紀・辰位」36回 →37・38・39・40章その他を追加加筆して57年に『儺の國の星』として出版

・56年4月~平成3年
「那珂川の地名考」122回 →筆者急逝で中絶(未出版)

これでわかるように『儺の國の星拾遺』は連載過程を経ずに昭和60年に出版されている。

〝高松宮のドイツ語訳古事記刊行の一環として世に出る運びとなった〟と書かれているので、いつかはわからないが書籍化の話が出、〝星紀星辰〟の原稿がそちらに回ったということになるのかもしれない。
「那珂川の地名考」連載と並行して出版が進められたようで、5年の歳月がかかったとも書かれており、こちらはこちらで尽力された方が居たようだ。

また『儺の國の星』と「那珂川の星紀・星辰」の内容はほぼ同じだが、書籍化に当たってタイトルの変更があったり内容が追加されたりしている。
連載を経ていると練度が高くなると言えるのかもしれない。

「広報なかがわ」より 『儺の國の星』では「三笠星」のタイトルになっている章

総じて言えるのは、「歳時月例」にしても「地名考」にしても「儺の國の星・拾遺」にしても、地名・星名・行事・その他を媒介として連綿と記憶されてきた古代からの歴史&解釈が語られていることだと思う。あくまでも私個人の見解だけれど。