彗星の尾がかかる山を観と定め天神地祇を祭った
コップ座Alkesの章は彗星に関する話が続く。
昔は彗星の尾がかかる山を観と定めて、ここに天神地祇を祭った。やがて観に遊ぶ白鳥を鶴と名付けて倭人は〝こふのとり〟と訓じた。新しき生命が世に現れる時、これを迎えて空を舞うと信ぜられていた。この信仰は日本にさき頃までまだ生き続けていたのである。
〝こふ〟とは七十六歳にして暦正を奠める古語であった。その観のあるところが国府であり、日振の略とも説かれていた。〝たつけ〟もまた日振の古語の一つであったときく。(『儺の國の星拾遺』p. 51)
七十六歳(=76年)という数字でハレー彗星だとわかる。(参照:彗星の間隔七十六歳 太陰暦を太陽暦に調節する時間的領域の限界)
ポイントは三つ。
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1、彗星の尾がかかる山を観と定め、天神地祇を祭った
2、観に遊ぶ白鳥が〝こふのとり〟で新しい生命に関わるという信仰があった
3、観のある所が〝
このうち2についてはまだ材料が足りないので、今回は1と3について考えてみる。
彗星の尾がかかる山
彗星は太陽の周りを楕円形の軌道で回っており、太陽に近づくと塵やガス・イオンの尾を出す。
この時、彗星の尾は太陽と反対方向に伸びる。
尾が最も長くなるのは近日点の前後だが、軌道上のどこにあっても尾は常に太陽の反対側に伸びる。
*参考までに2013年に接近したパンスターズ彗星の様子を引用しておく。
これを地上から見た場合、「彗星の尾がかかる山」は次のような光景になる。
もちろん条件によってこのようにも見える。
だがほとんどの場合〝彗星の尾がかかる山〟はこの姿だ。
山のサイズがわからないが、彗星が接近した時こういう風に見える山を〝観〟と定めたようだ。
〝観〟とは何か
〝観〟と言う文字は「観察・観望」を意味する。
山を彗星観察のポイントにした事がうかがえる。
だが彗星は刻々と位置を変えるので、事前に「この山にかかる」と予想するのは難しい。
次は1910年に接近した時のハレー彗星の様子だが、あっという間に地球とすれ違っていくのがわかる。(フルスクリーン推奨)
もし事前に予想できたとしたら、相応の天体観測技術があったことになる。
ハレー彗星なら遠くに見え始めてからでも間に合ったかもしれないが、やはり祭祀を行うのであれば事前の準備が必要だ。ある程度の予測(軌道計算など)は出来ていたのでは無いかと思う。
いずれにしても〝観〟と定めた山で天神地祇を祭ったとのこと。
具体的にどのようなものだっただろうか。
天神地祇を祭るというと、すぐに思いつくのは古代中国で行われた封禅の儀だ。
土を盛って檀を造り天をまつる「封」の儀式と、地をはらって山川をまつる「禅」の儀式を言い、 始皇帝が紀元前219年に行い( 始皇嬴政 始皇28年 封泰山、禅梁父山)、以後前漢の武帝や北宋の真宗など十数人がこの儀式を行ったと伝えられているとされている。
が、そもそもは三皇五帝によって執り行われたのを最初とし、始皇帝以前に72人の帝王が行ったのだそうだ。
三皇五帝が始まりであるならば、案外その最初の姿は『竹書紀年』の「鳳凰翼に出づ(彗星が翼宿に出現した)」だったかもしれないと思う。
秦の始皇帝が泰山で封禅の儀を行った時には既に古い時代の儀式の知識は失われており、結局我流で執り行ったと伝えられているからだ。
彗星の周期を利用した暦正の方法は為政者にとって極秘重要事項であったはず。
春秋・戦国時代のような混乱期に失われたとしても不思議ではない。
どこかに祭祀の痕跡があるといいのだが、これ以上のことはわからない。
余談
「観のある所が〝
〝国府〟と書いて〝こふ(コウ)〟と読む場所には何かヒントがあるかもしれない。
なお『字通』によれば、漢字の〝観〟には〝こうのとり〟の意味もあり、農耕儀礼に関係しているとのこと。
旁は「見る」。観察・観望・諦観などの言葉に繋がる。
偏は「毛角のある鳥のかたち」。よって観の字には、「毛角のある鳥で鳥占いを行って神意を察する」という意味がある。
「観」は農耕儀礼に関する字でもある。
ほかに、望楼・たかどの・京観・アーチ状の門、こうのとりの意味もある。(『字通』(白川静/平凡社 より)
『儺の國の星拾遺』p.51の内容と重なっているように感じるのは考えすぎだろうか。
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