小水城は今のところ推定地を含めて6ヶ所
小水城として知られている土塁は、上大利・大土居・天神山の他にもあるのだそうです。 次の図の、赤い実線が発見されている部分で、点線が推定されている部分とのこと。 (残念ですが、画像へのアクセスが集中したため盗用防止として解...
小水城として知られている土塁は、上大利・大土居・天神山の他にもあるのだそうです。 次の図の、赤い実線が発見されている部分で、点線が推定されている部分とのこと。 (残念ですが、画像へのアクセスが集中したため盗用防止として解...
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中轅星の続きを読んでいきます。 博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。“とふ”とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。“...
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前記事で、水城は土地を有効利用した三毛作のための瀦水畓だったという伝承を紹介しました。 この耕作方法の名残りが現代にあるそうです。 天皇即位の大典に献上する新米を作る所を悠紀田(ゆきでん)及び主基田(すきた)と言う。昔の...
過去の記事で、水城はもともと筑紫国造磐井がひらいた瀦水畓(*)だと書かれていることを紹介しました。 (*「畓」が見えない方へ。という字です。) この瀦水畓(*)は単なる灌漑用水ではありませんでした。 本文をそのまま引用し...
Zuhr⑩で、天智帝が水城を疎水式に船を通す湖にした話を紹介しました。 その時王城神社が四王寺山から現在地に遷されていたなら、水城で堰き止められた水面は田中熊別の陵あたりまでしか無かったことになるという所まで書いていまし...
水城を中津、あるいは中大江(なかのおおえ)と言った話の続きです。(前記事参照。) 現在水城跡として土塁が残っていますが、通説では博多湾側に水がためられていたことになっています。 けれども『儺の國の星・拾遺』によれば、博多...