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真名部なる氏族が太宰府に直属する② 「太宰」府とは?

BC627年3月28日春分 那珂川町つっぱり石付近から見た夜明け

 

 さて、今度は「真名部が直属した太宰府」の「太宰」についてです。

 『儺の國の星・拾遺』には、「太宰」の由来について次のように書かれています。

 太宰たいさいとは戦国(前四八〇〜二五六(*ママ))の世に置かれた天文暦象の官名であった。

『儺の國の星』p.109)

*私注
二五六=「前二五六」。中国大陸における戦国時代。

(ルビに(ママ)と書いているのは、誤字と思われるが「原文のまま」という意味です。)

「太宰」は戦国時代の中国で用いられていた官名、それも天文暦象を司る役職とのことです。

戦国時代は諸侯が消長を繰り返していたので、どこで用いられた官名なのかはっきりしませんが、天文暦象を司る官だったことは確かなようです。

また、このような記述もあります。

太宰府の名の由来は太歳にもあったらしく、ここで倭人と漢人の暦日の換算を正して往来に資したと語られておりました。太歳の儀式は清和帝貞観四(八六二)年の宣明暦採用以来絶えました。

(『儺の國の星』p.84)

 「太宰府」の由来は「太歳」という儀式から来ているとのことです。

 「え、太歳ってなに?」

 となりますよね。

 大丈夫、これについてもちゃんと説明があります。

 太歳とは天皇の一世一代の間の暦制を さだめる儀式でありまして、即位の大典の前後におこなわれます。太陽暦の四季の初日たる立春立夏立秋立冬および四季の中なる春分夏至秋分冬至と太陽(ママ)暦の朔望が一致する日を選びました。

(『儺の國の星』p.84)

*私注
太陽暦=「太陰暦」の誤りと思われます。

 もう一カ所、同じ内容です。

天皇一代の暦法を選定する儀式を太歳と言う。神武帝(前七〇七~五八二、在位前六六〇~五八五)ならば即位前七(前六六七)年甲寅であり、持統帝(六四五~七〇二、在位六八七~六九七)ならば即位元(六八七)年丁亥が太歳である。

(『儺の國の星拾遺』p.21)

 なんとまあ驚くようなことが書いてあります。

 太歳とは天皇一代の間に用いる暦を定めることだそうです。

これは「太宰たいさい」が天文暦象の官名であることにも通じます。

 しかも日本書紀に書かれている謎の「太歳」は、このことを指しているのだそう。本当に?

 ためしにWEB上に公開されている日本書紀のテキストを見てみました。(参照:J-TEXT)

 確かに神武天皇即位前紀の中で「是年也 太歳甲寅」と出て来ます。他の天皇についても、大体即位した年に太歳(大歳)記述があります。

 『儺の國の星・拾遺』の内容と合っています。

このことについて少し考えて見ました。

   ||***||***||***||***||

 通説ては「太歳」は木星の鏡像とされています。

けれど私は「天皇一代の暦を定める儀式」のほうが、本当ではないかと思いました。
  
 というのも、これは古代中国における「正朔(暦)」だと考えたからです。その暦に従うことを「正朔を奉ず」といい、天子の統治に服することを意味します。天皇即位の儀式にぴったりです。

 日本書紀崇神天皇十年にも《遠荒とほきくにの人等、猶正朔のりを受けず。》という一文があります。 この場合「のり」と訓じていますが、正朔が《導民之本》であることがうかがえます。

 あるいは、日本(倭)版「封禅」であり「郊祀」なのかもしれません。
 (考えてみれば、真鍋家はメトン周期を「推」と言っていました。それは『史記』封禅書に登場する言葉でした。参照:六十九推の方冊の家系

 「正朔」「封禅」「郊祀」、いずれにしても天子の権威を象徴するものです。

 「太歳」が同様の儀式であったなら、天皇の権威と治世を象徴しますから、是非とも史書に入れたい言葉だったのではないかと思いました。

 わざわざ天皇が即位した年に「太歳」を入れていることに、この儀式の重みがある、と考えました。

 ただ、日本書紀の完成は七二〇年で、「天皇」という称号も後世のものですから、本当に神武天皇以来太歳が行われたかどうかはわかりません。 

 また、日本書紀は記事に日付を書いているのに、太歳には日付がありません。これも考えると変です。

 日本書紀の日付については、天文現象が実際と合っていないなど問題もあります。
 日付が合っていないのに太歳の年だけ合っているとしたらそれも変です。後から帳尻を合わせたともとれます。(日付を書けなかった事情があるのかもしれませんが。)

 大事な儀式のはずなのに、続日本紀に記載が無いのもどう考えたらいいのかわかりません。太歳の儀式が絶えたのは清和天皇の貞観四年の宣明暦採用以降で、それまでは行われていたようなのですが。

 それでも、太歳を「天皇一代の暦の選定儀式」とする方が、「木星の鏡像」説より理にかなっている気がしました。

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 話は変わりまして。

「太歳」はまた、天皇の代が変わるときに暦をリセットし、ずれを調整することでもあったようです。

 現在私たちが閏年や閏秒を入れたりするのと同じように。

 そういう合理的な面も持っていたのは面白いですね。

 「太歳」から太宰という言葉が生まれたのなら、「太宰府」は暦の府であることがわかります。

 そうであれば、天文算数の名家「真名部なる氏族」が直属することも頷けます。

 

    ちなみに筆者によると、表記は「大」宰府ではなく、「太」宰府と点をつけるのだそうです。



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