Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

六十九推の方冊の家系

那珂川町市ノ瀬日吉神社から見た607年のハレー彗星
那珂川町市ノ瀬日吉神社から見た607年のハレー彗星
 では改めて“六十九推”を考えてみます。

 一推=十九年なので、六十九推は19年の69倍。

   19年×69=1311年 

 六十九推は1311年ということ。

 筆者の曾祖父が計算したハレー彗星は1910年の回帰。よって1910年から六十九推1311年を引くと、

   1910年|1311年=599年

 西暦五九九年。この年が六十九推の始まり、ということになるのですね。 

 六十九推は一三一一年前、即ち推古帝七(五九九)年のことになるのでありますが、日本書紀巻二十二推古紀十(六〇二)年壬戌歳には、
  冬十月に百済のほふし 観勒くわんろく  まうおもぶけり。
  て暦の ためし及び 天文地理てんもんちりふみあわせ
  遁甲方術 どんかふはうじゅちふみたてまつる。
とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から太宰府の招請に応じて暦書を献上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系であったことが判明いたしました。

(『儺の國の星拾遺』序2)

*私注
ほふし 観勒くわんろく  まうおもぶ」は「僧觀勒來之」の脱字と思われます。(参考:J-TEXTS/日本書紀)

 推古帝十年に百済から天文学や暦がもたらされた時、既に太宰府には暦を検算する部署のようなものがあって、物部氏が司っていたようです。だから “祖先は物部氏の出身”であったことが“判明した”、となるのでしょう。
 
 一九一〇年当時より六十九推遡ってみるまでは、真鍋家が物部氏の流れをくむことは表に出ていなかったようです。それまで藤原氏の家系として通っていたことが次の記述からうかがえます。
 

 著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸石岡ひたちいしおかで、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。
 特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合うまかい(六九四~七三七)及び今昔物語に豪勇を讃へられた藤原保昌(九五八~一〇三六)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

(『儺の國の星』発刊にあたって)

 物部氏の技術だった天文計算が、藤原宇合(不比等の三男)の子孫である筆者の家系に伝わっていた理由は、「太宰府に直属する真名部なる氏族(『儺の國の星拾遺』p.109)」に関係しているのではないかと思っています。

関連記事はこちら。
真名部なる氏族が太宰府に直属する①真名部とは
真名部なる氏族が太宰府に直属する②「太宰」府とは

 



[previous][next]

0