Zuhr⑯(最終) 狆 はまさに獅子の縮図
獅子座Zuhrの章がようやく終わりに近づきました。 最後はなぜか寺社の狛犬の話です。 狆(こま)の石像は、景教が日本に伝来した時から一挙に神社佛閣にまで安置されるほどに及んだ。あたかも文明開化の象徴として十字架が耶蘇教と...
獅子座Zuhrの章がようやく終わりに近づきました。 最後はなぜか寺社の狛犬の話です。 狆(こま)の石像は、景教が日本に伝来した時から一挙に神社佛閣にまで安置されるほどに及んだ。あたかも文明開化の象徴として十字架が耶蘇教と...
獅子座の頭の部分を「ししの大鎌」と言いました。 「❓(疑問符)」を反転したような星の並びを鎌に見立てたのです。 この星の並びを「水勢が盛り上がって膨張する光景」に見立てた人達がいました。 「水勢が盛り上がっ...
獅子座の別名に大食星(たいじのほし)・太子星(たいしのほし)があるそうです。 「大食星」は獅子が万物を食い尽くすことから来ているとのこと。 獅子座だからライオンのイメージなのですね。 半円状の星の並びを托鉢の鉢に見立てて...
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中轅星の続きを読んでいきます。 博多の人は太宰府よりもむしろ都府樓(とふろう)の言葉を口にすることの方が多かった。“とふ”とは胡語のdaw(ダウ)、記紀の鳥部(とべ)のことであり、舟ならびにこれを操る人のことであった。“...
Zuhr⑩で、天智帝が水城を疎水式に船を通す湖にした話を紹介しました。 その時王城神社が四王寺山から現在地に遷されていたなら、水城で堰き止められた水面は田中熊別の陵あたりまでしか無かったことになるという所まで書いていまし...
水城を中津、あるいは中大江(なかのおおえ)と言った話の続きです。(前記事参照。) 現在水城跡として土塁が残っていますが、通説では博多湾側に水がためられていたことになっています。 けれども『儺の國の星・拾遺』によれば、博多...
海が陸に深く浸入していた時代、玄界灘と有明海は繋がっていました。 そのため北部九州は海峡で隔てられ、西の天原島と東の宇佐島で構成されていたとのことです。(前記事参照) 二つの島は現在の久留米市長門石付近で近接していました...
諫早地峡のような地形も「なかて」だというのが前回の話でした。 「なかて」の使用範囲は広いのですね。 その続きになります。 同じ國名は大陸から大和に通じる最初の土地が長門であった。記紀仲哀紀にこれがみえる。郷名では千歳川の...
獅子座(の一部)を“なかてのほし”と言ったことから、“なかて”に関するエピソードが続きます。 “なかて”とは「“とりつぎ” 或は “ひきあひ”など媒酌人的存在」(『儺の國の...
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木下祝夫博士によると、紅白は北欧神話の二神の象徴で、紅はフレイヤ白はユールからきているという話を前回紹介しました。 紅白からの連想でしょうか、話題は猿田彦命の話に飛びます。それも比叡山にまつわる話です。(猿田彦の姿が赤い...
竿に紅白の二条の布を螺旋状に巻いたものを“なかて”といい、神を先導する器だとする話の続きです。 お祝い事などで紅白を用いるのが当たり前になっていますが、この2色について興味深いことが書かれています。 香椎宮司木下祝夫博士...
前記事で、獅子座の一部を中国では「軒轅」と呼び、昔の人は「なかてのほし」と言った事を紹介しました。 また、「なかて」とは「時間空間の無明未妙の状を形容した古語」であり、「“とりつぎ” 或は “ひきあひ” など媒酌人的存在...
中轅星(なかえぼし)(獅子座δ星)の「轅(ながえ)」の文字、これは車輪が付いた乗り物を引くため前方に長く出た棒のことです。 牛車(ぎっしゃ)を例に挙げますので、「轅(ながえ)」を探してみて下さい。 コトバンクより引用 中...
獅子座δ星を中轅星(なかえぼし)と言うそうです。 七十二、中轅星 獅子座 Leo(レオ) δ( 68) Duhr(ヅール) 赤経 一一時一一・七分 赤緯 二〇度四八・五分 光度 三・五 (『儺の國の星拾遺』p.1...