三原の潟には Papyrusパピルス Japonicaヤポニカ と名をつけるべき背高いあしが生い茂っていた

前記事で、エジプトのパピルス舟が古代日本にもあり、材料の三稜篠みはらのしのをとって、〝みはら〟とも呼ばれていたことを紹介しました。

〝みはら〟に関しては、ほかにこんな記述もあります。

筑後三原は玄界灘と有明海の潮の往来が洲を作り上げて、淡路三原は大阪湾と播磨灘はりまなだの潮が瀬を干し上げた。應神帝(二七〇~三一二)から仁徳帝(三一三~三九九)の御宇には、まだ三原の潟にはPapyrusパピルスJaponicaヤポニカと名をつけるべき背高いあしが生い茂っていた。氷河時代の頃は全世界にはひしこっていた大沙草おほかやつりぐさの品種の生き残りであった。茎の切り口は正三角であったところから〝みはら〟の名が生まれたときく。

(『儺の國の星拾遺』p.160)

筑後三原とあるのは現在の福岡県小郡市付近で、今も市内の〝御原みはら〟地区に名まえが残っています。

内陸と言っていい場所ですが、縄文・弥生時代は海が浸入していました。

海岸線が後退するとともに陸地化していきますが、西暦300年頃はその途上だったようです。

潟というのは、潮が引くと地面が現れ、満ちると海になる場所のことですから。

そこに「Papyrusパピルス Japonicaヤポニカと名をつけるべき背高いあし」が生い茂っていたとあります。(パピルスの日本種ですか、面白いです。)

「切り口が正三角だったので〝みはら〟の名が生まれた」と書かれているのが、p.248の三稜篠みはらのしののことです。

やはりこの地はパピルス舟ゆかりの地なのだと思います。

材料がたくさんあったのなら、それを編んで舟にしたのではないでしょうか。

ただ、当地は遠浅なので、パピルス舟といっても信濃地方のものとは少し様子が違ったようです。

長くなるので次の記事で触れたいと思います。

*補足です。

この本は天皇の在位を西暦で明記しているのですが、この点については検証も反証もしていません。
書いてあることをそのまま紹介しているだけです。
「こんな伝承があるんだ。へぇー。」ぐらいに思っていただければ幸いです。

 
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