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倭人も昔は集落の中央に石柱を建てた

夏至祭のポール(フィンランド)
夏至祭のポール(フィンランド)
By Pöllö投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

前々記事の続きです。

『那珂川の歳時月例』(p.27)によると、倭人も昔は、部落の中央にある平地に石柱を建て、この影が最短となる五月に、一氏一族総出の団欒を行ったと傅へられるとのことでした。

北欧の夏至祭りのポールと同じですね。

ところが、時移り世変るにつれて、往時の石柱だけが起源不明のまゝ風雨に曝されて来たのだそうです。

今となってはどれがそうなのかわかりませんが、私たちが集落で見かける石柱のどれかは、かつて夏至を知るために日足を測っていた日時計かもしれないわけです。

しかもこの石柱、名前がいろいろで、さらにややこしいことになっています。

これを日塚(ひづかと呼んだが、日の古音“く”・“き”が残った地方では鬼塚(きづか、或は首塚(くびづかと呼ばれて、戦乱の世の犠牲者の墓所と信じられてきた。(『那珂川の歳時月例』p.27)

日足を測るから「日塚」と呼んだものが、訛って「鬼塚・首塚」となったとのこと。

でも実際に戦乱の犠牲者を葬った場所もありますね。
どう見分ければ良いのでしょうか。

日足を測る「首塚」というと、個人的に思い当たるものがあります。

**ここからは妄想による言葉遊びなので笑い飛ばしてください。**

それは、飛鳥寺の近くにある入鹿の首塚とされるところです。

「どうしてこんなところにあるのだろう」と不思議でしたので、「もしこれが日塚だったら?」と作図してみました。

AD200年6月23日夏至 入鹿首塚からの日の出
AD200年6月23日夏至 入鹿首塚から見た日の出

“倭人”ですから弥生時代末期を想定、AD200年の夏至を設定したところ、面白いことに山の稜線に沿って日が昇りました。これはちょっと印象的かも。たまたまかもしれませんが。

この山はなんでしょう?
日が昇る山に意味があるのだとすれば、首塚がここにある必然性もあるのかも。

なんてね。

作図はちょっとしたお遊びです。あまりこじつけてはいけませんね。
この話はこのくらいにしておきます。

そもそも日塚自体が太陽を観測するものなので、夏至を知るにはこれだけで事足ります。
日の出のポイントはあまり重要ではないかもしれません。

『那珂川の歳時月例』によれば、日塚は集落の中心に立てられたとのこと。
もし入鹿の首塚が日塚だったとしたら、ここが集落の中心だと言えるかどうかが重要でしょう。

首塚の位置を地図で見ると、近くに飛鳥寺がありかつての西門のすぐそばです。
もともと人々が集う場所だったところに、後から寺が建ったと言えなくもない気もします。

さて、真実はいかに。

5/2追記
入鹿の首塚がある飛鳥寺西方遺跡(槻の木の広場)について、記事を書きました。

ところで、集落の中央に立てられたという石柱に関して、ものすごく悩んでいる記述があります。

これです。
  ↓

ところによっては立石、或は立神とも言ふ。大和高市飛鳥(たけちあすかでは酒匂石(さかわいしと言ふ。(『那珂川の歳時月例』p.27)

酒匂石?????

検索すると、酒船石のことを酒匂石と表現しているらしいページを見つけましたが、場所がはっきり書かれていませんでした。なので確定できません。
 ↓

日本奈良県の飛鳥の東の山の端に、小山があります。その中腹の、西を向いてテラス状に切り開かれた場所に酒匂石があります。
                            
 長さ5メートル、幅2メートル、厚さ1メートルの花崗岩で出来たこの石には幾何学模様の3本のせんが彫り込まれ、テラスの真ん中に置かれている。
 コレが酒匂石だ。
(「巨石が語る地軸大移動..(酒匂石)…第12惑星デタラボッチと地軸大移動」より)

とのことです。

もし酒船石だとしたら、“立石”ですから、かつては立っていたことになります。
ええええっ!!です。

現在はこのように平らです。
  ↓
史跡 酒船石
多くの人は、初めから今の姿だと思っているはず。

立石だったとすると、どの様に立っていたのでしょう?

また、石材として使うための矢穴跡もあります。
今ある姿は完全形では無いと考えられています。
完全形はどういうものだったのでしょうか?

これはお手上げです。
誰か教えて。

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