前記事で、彗星が暦の策定に重要な役割を果たしていたことを紹介しました。
それは既に堯帝の時代には行われていた(『竹書紀年』)という、古い歴史を持つものでした。
1910年のハレー彗星の近日点を筆者の曾祖父が計算されていたのも、この延長だったと思われます。
明治四十三(一九一〇)年四月一九・六七九日
Halley 彗星は近日点を通過しました。この時が六十九推の方冊の家系を語ると、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。(『儺の國の星拾遺』序2)
、「この時が六十九推の方冊の家系を語る」「彗星到来を予見した上での遺言」ともいうべき言葉を残されていました。
《家系を語る》《遺言》という表現に、強い思いがあったことがうかがえます。
ハレー彗星の回帰予測は真鍋家にとって重要な事だったのですね。
(残念なことに、この技は筆者の曾祖父の代で永久に失われたそうです。)
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さて、ここで《六十九推》の「推」という言葉について考えたいと思います。
前記事で触れましたが、「推」というのはメトン周期のことで「一推=19年」です。
序文の説明をそのまま引用します。
ここに
一推 とはMeton 周期のことで、太陰暦二百三十五月六九三九・六八八四一日と十九太陽年六九三九・六〇一七〇日が差〇・〇八六七一日をもって一致するところからきた名称でありました。(『儺の國の星拾遺』序2 )
“おしはかる”という意味の漢字“推”が、どうしてメトン周期のことになるのか、その理由も書かれています。
史記封禅書第六に曰く、
黄帝、日を迎へ策を推すに、後率ね二十歳
にして、復た朔旦冬至なり・凡そ二十推、
三百八十年にして、黄帝・僊して天に登れ
り。(『儺の國の星拾遺』p.129)*語注*
・日を迎へ=日(日月朔望)などを数えること。
・策=蓍。茎を占いや数をかぞえるに用いる。
・推す=押しはかる(参考:『新釈漢文大系』/明治書院)
“日を迎へ策を推す”ことから推という単位が生まれたのですね。
「黄帝が日月の運行をいろいろ考え(占っ)てると、およそ二十年で再び朔旦冬至になった。」とあります。約二十年で再び朔旦冬至、なるほど冬至に新月となる日を基準としていたようです。
さらに言うと、“日を迎へ策を推す”というのは、算木を用いた暦計算の描写だと思いました。
およそ二十推が三百八十年ということですから、380 ÷ 20=19で、一推は約十九年になります。確かにメトン周期です。
史記封禅書にメトン周期が書かれていたなんて!
メトン周期は一般的には紀元前433年にギリシャの数学者メトンが提唱したとされています。
ところがそれ以前に中国で用いられていたことになります。
東洋での発祥はいつの頃か不明でありますが暦元の算方から推定しますと、西暦紀元前一四〇一年庚子が考えられます。
(『儺の國の星』p.44)
これが本当だとすれば、古代の天文学を見直さなくてはなりませんね。
筆者の家系がハレー彗星を重んじるのは周期がメトン周期の4倍にあたるからで、メトン周期と併せて端数を調整していたのかもしれません。
長い尾を引いてやってくる彗星は神秘的でわかりやすいので、改暦を広く知らしめることに役立ったことでしょう。
なんとも驚くべき話でした。