「筑紫」の読みに「つくし」と「ちくし」があります。
なぜ読み方が二通りあるのか?について書かれた文を紹介します。
筑紫を〝つくし〟と読むのは大和の上方の
氏族 であった。地元は今に至るまで筑紫を守っている。察するに本来は〝つくし〟であったらしいが、太宰府なる万人往来の国際都市が、神功皇后二十三 (二二三)年以来連綿として隋(五八一~六一七)まで存続していた環境が而 らしめた所であった。いかに大陸の文化による客観的伝統が〝ちくし〟を固定させたかになるが、最も重要なことは、水城に朱船の発着ごとに外人の干支と、倭人の干支を対応させる史官の職務が基本であったかを知らなければならない。(『儺の國の星拾遺』p.57~p.58)
本来は「つくし」であったようです。
また、筑紫を「つくし」と言うのは大和の上方の氏族とのこと。
それが踏襲されてきて、標準語的には「つくし」なのでしょうか。
引用部に書いてあるように、地元では今も「筑紫」を「ちくし」と言います。
筑紫野市は「ちくしの」市、筑紫駅は「ちくし」駅、小中高大学校に筑紫が入っていれば読みは「ちくし」です。
これは「太宰府なる万人往来の国際都市が、(中略)〝ちくし〟を固定させた」からだそうです。
「大陸の文化による客観的伝統」なのだとか。
大陸の人達が太宰府のことを通称・愛称的に「ちくし」と呼んでいたので地元でもそう呼ぶようになった、ということのようです。
では「つくし(ちくし)」とはなにかというと、「竹斯」のことだそうです。
「竹斯」とは「汗青」、わかりやすくいうと竹簡のことだそう。
〝つくし〟とは竹斯であって、倭人は筑紫と書きこれを〝ちくし〟と読むが、元来は鑑正、略して汗青、即ちすなわち若竹を火に通して搾り出た油を灰で拭き磨き揚げて多量に用を足すか、または永久保存に古竹を薄片にはいでこれに干支を
漆書 きした冊子 であった。(『儺の國の星拾遺』p.59)
*汗青=〔古代中国で、青竹を火にあぶって油を取り去ったものに文字を書いたということから〕記録。歴史。
汗簡 。殺青 。(weblioより)
紙が無い時代は、竹を平らな板状にしたものを綴じて文書にしていました。
おそらくこういうものだったと思われます。

このような文書が「
これに「筑紫」という字を当てたのは好字を望んだということでしょうか??
「ちくし」読みがこういう理由だとしたら面白いです。
なお、「ちくし」については別の伝承もあり、「これが正解」ということではないようです。
筑紫 を地元では〝ちくし〟と云う。竺人 の訛りと説かれている。竺とは徳人 、或は篤人 、即ち西域の胡人、ならびにその文化伝統の総称であった。(『儺の國の星拾遺』p.71)
「ちくし」は西域の胡人やその文化伝統の総称とのこと。
総合すると、太宰府が国際色豊かで栄えていたことを象徴する言葉が「ちくし」ということのようです。
なお、本題とは関係ありませんが、なにげに「竹斯」を「筑紫」と書き「ちくし」と読むのは倭人だと書かれています。
じゃあ「つくし」と読むのは倭人ではないのでしょうか???
つまり大和の上方の氏族は倭人ではない???
旧唐書の「倭」と「日本」併記を思い出しましたけれど、どうなのでしょう。
それから、太宰府の成立が神功皇后の時と書かれていてびっくり。
これについてはいつか書けたらと思います。
漢字表記について補足です。
タイトルでは「大和の上方の氏族」としましたが、原文は「大和の上方の士族」となっています。
「士族」という言葉が登場するのは中世からと考え、nakagawaが「氏族」に置き換えました。
ただ、万葉仮名の「都久之」等の表記を念頭に、編者とされる大伴氏を想定した表現であれば原文通り「士族」が正しい表記かもしれません。大伴氏は武人の家系ですからので「士族」と言えるでしょうから。
(つまり、士族である大伴氏が筑紫を「つくし」と読み、万葉集に
なお、『儺の國の星』のほうでは
筑紫[つくし]を地元では”ちくし”と云う。竺人[ちくにん]の訛りと説かれている。竺とは徳人[とくひと] 或は篤人[あつひと] 即ち西域の胡人 ならびにその文化伝統の総称であった。今のSilkroadがこれであった。”ちく”とは韃靼[だったん] 斯丹[したん]のことであった。
筑紫の東島と西島が針摺で繋がれ…爾後この竺[ちく]は現れない。倭人は胡人を”つきひと”とよんでいた。太陰暦の氏族の意であるが 又漂着の船人の形容でもあった。自らの力で海底に潜って石を抱きあげては磯城を築いてきた。筑後水天宮を本據とする河童[かっぱ]はまさにその名残である。
と書かれています。
いずれにしても、シルクロードを経由して伝わった文化を持っている人、となるようです。