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Zuhr⑯ こまはまさに獅子の縮図 

獅子座Zuhrの章がようやく終わりに近づきました。

最後はなぜか寺社の狛犬の話です。

こまの石像は、景教が日本に伝来した時から一挙に神社佛閣にまで安置されるほどに及んだ。あたかも文明開化の象徴として十字架が耶蘇教と共に入国したと同じ現象であった。狆はまさに獅子の縮図に外ならなかったのである。

(『儺の國の星拾遺』p131~p.132)

「狆」と書いて「こま」と読んでいます。
神社仏閣にある石像というと、狛・高麗という字で書かれる守護像です。
誤植ではなく敢えて「狆」と書いているのであれば、理由は何でしょう。
なんとなく、蜀狗(短吻犬種)が献上された話と重なっているようにも思えましたが、よくわかりませんでした。

寺社の狛犬の起源については諸説あります。
京都国立博物館によると仏像の前に2頭のライオン(獅子)を置いたことにあるそうです。
それで獅子座の話に狛犬の話が入っているのですね。

 6世紀のことです。当時、仏教を伝えるということは、仏像を伝えるということでもあったのです。そして仏像とともに、その前に置かれた2頭のライオン(獅子)も日本に入って来ました。こうして仏像の前に2頭の獅子を置く習慣が始まったのです。
 しかしこの段階では、置かれたのは「獅子」で、「狛犬」ではありませんでした。
(中略)
 この組み合わせが出来たのは、平安時代の初めです。奈良時代までは獅子2頭だったのですが、ここに新しいセットがつくり出されました。そしてそれが、前にも述べましたように、宮中(きゅうちゅう)、神社、お寺などに置かれました。私たちが今見る狛犬の起源はこんなに古いところにあるのです。

狛犬/博物館ディクショナリー/京都国立博物館)

獅子2頭だった守護像が「獅子」と「狛犬」になったのが平安時代とあります。
景教の伝来と時代は合っていますが、景教がトレンドだった話は聞いたことがありません。
あれば、その当時の文学作品などに登場していてもいいはずです。
平安時代に広まったこまが、明治時代に文明開化の象徴とされた十字架と同じ現象だというのはどういうことなのでしょう。

過去記事で最澄も空海も唐で景教を学んだ可能性があることに触れましたが、開いたのは仏教寺院です。
表向き景教は関係なさそうなのですが。

うーん。
景教と狆に関して、筆者の家系には何が伝わっているのでしょうね。

これは私の勝手な想像ですが、守護像としての獅子・狛のルーツが西域(もっと遡ればエジプト)にあることを知っていた氏族は、喜んで置いたかもしれません。
獅子座が春分元旦の象徴であった氏族は、獅子座を連想させる獅子・狛犬像に祖先の祭を見ていたのかもしれない、と思いました。
なぜなら持統帝以降は暦が画一化され、私的に星を祀ることが禁じられましたから。
政教分離で(?)中臣氏と藤原氏が分かれてから、藤原氏は人々から星辰を遠ざけました。
こんな風に何かに仮託して先祖の祭を継承したのかもしれません。
勝手な妄想ですけれど、

獅子座Zuhr、中轅星の章に関して気になったことはこれで終わりです。

次からは新しい章に入ろうと思います。

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