Zuhr⑩’ 天智帝が水城を疎水式に船を通す湖にしたとして それは二つあったのではないかという試論

Zuhr⑩で、天智帝が水城を疎水式に船を通す湖にした話を紹介しました。

その時すでに王城神社が現在地にあったなら、水城で堰き止められた水面は田中熊別の陵あたりまでしか無かったことになるという所まで書いていました。(地形も現在と同じと仮定。)

だとすると、王城神社のあたりから針摺までは陸地だったことになります。

水がなければ船は通ることができません。

つまり、当時有明海側から太宰府に上ってくる船は、水城によって出来た湖を利用することが出来なかった。ということになります。

もっと高いところに水源がないと水路での移動は難しいと思います。

ですから博多湾と有明海を水路で繋いだとしたら、針摺峠あたりを境に有明海側と博多湾側で別々の水源を利用したのではないか?というのが今日の話です。

針摺から有明海側を地図で見てみると、大きな川としては宝満川があります。
けれど筑紫野市常松付近で海抜29メートルほど、針摺峠は海抜40メートルありますのでもっと高いところでないと水を利用できません。
宝満川では針摺を越えられません。

さらに近辺を見てみました。
すると山口川がありました。
イオンモール筑紫野付近で海抜40メートルほど、これなら水を溜めて針摺をぎりぎり越えることが出来そうです。

以上より、有明海側から来る舟は、まず筑後川の河口から川を遡上して宝満川に入り、さらに山口川を利用して針摺を越えたのではないかと思われます。

山口川と鷺田川をつなぐ疎水があったか、ここも人工湖にして繋いだ、と想像しました。
パナマ運河におけるミラフローレス湖です。
や、標高から言うとこちらがガトゥン湖で水城がミラフローレス湖かな。

筑紫野市のJT工場あたりに調整池があり、そこから鷺田川まで水路が通っていたらこんな感じかなーと妄想したのが次の図です。

天智天皇が疎水式の運河に改修したというのはこういうことかもしれません。
当時王城神社が冠水していなかったなら、針摺は湖では無く水路で繋がれたと考えられますから。

以上、『儺の國の星・拾遺』『王城神社縁起』に書いてある通りだったと仮定し、また地形は現在と同じとして妄想を繰り広げてみました。

この本に書いてある通りのことがあったとしたら、水城の成り立ちは

「磐井の瀦水畓→白村江の敗戦を受けて防塁に改造→疎水式運河に改築」

または

「磐井の瀦水畓→7世紀の東アジア情勢を見越して疎水式運河に改築(百済滅亡も含む)→白村江の敗戦を受けて防塁に改造→疎水式運河として利用」

という順番だったのかなというのが個人的な考えです。

参考
・「水城に1350年前の先端土木技術を読む
・「遺 跡 に”古 代 の 建 設 技 術”を 読 む~特 別 史 跡 ・水 城 を 中心 と して ~
・「河川工学からみた水城

[最終更新日]2020/07/15