『儺の國の星拾遺』から獅子座に関する話をメモしている途中ですが、『儺の國の星』にも獅子座の話があるので紹介します。
春の彼岸に入りますと、日一日と日暮れが長くなります。春の宵闇の東の空にまず輝きはじめるのが獅子座
Leo の星群であります。(『儺の國の星』p.198)
獅子座は春を象徴する星座として書かれています。
大宰府政庁跡からのシミュレーションでは、丁度宝満山あたりから昇ってきます。
こうしてみると、大根地山や宝満山は日出・月出・星出のポイントになりますね。
獅子座の別名を
獅子座
Leo を倭人は笠簑星 又は笠置星 とよんでいた。〝かさみのほし〟、〝かさをきほし〟がその原形であったらしい。いかにも獅子座特有の、半円弧と一直線の結び合はせを形容している名である。
那珂川では獅子座が夕暮の東天に見えだす頃から、冷たい雪や霰が靄や霧にかわる。そしていつしか霙 が雨になる日がくる。萱葺 の百姓屋の戸口 に、濡れた簑笠が掛けられる風景をみると春遠からじと幼な心にほのかなよろこびを感ずることが多かった。(『儺の國の星』p.196)
寒さが緩んで雪が雨に変わると、農作業を終えて夕方帰宅した人達の笠が戸口に掛けられるようになるのが由来だそうです。
獅子座の星の並びが似ていることと季節がピッタリ合っていたのですね。
雨具としての笠が戸に掛けられている光景が春の風物だったとは、農作業の苦労が思われます。
さて、頭を悩ませているのが次の箇所。
大和の
笠置 の山々の名は、筑紫の葛城 から神功皇后(二〇一~二六九)の御宇に遷したものと伝えられる。
葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。昔は日面見山 とよんでいたと聞く。西の伊覩 (怡土)の百姓は、この葛城の山や谷から上がる太陽の方向を見定めて、太陰暦、即ち月暦に太陽暦、即ち日暦の二十四節季、時と所によっては、二十節季をふり添えていた。怡土がかつて日向 の国とよばれていた所以がここにあった。(『儺の國の星』p.196)
獅子座の別名「笠置星」からの連想で笠置山の話になったようですが、筑紫の葛城山が地名移動して大和の笠置山になったというのは??
うーん。
〝筑紫の葛城山〟とは三郡山地のことですね。
今も「宝満山葛城峯」として修験道の峯入りルートに〝葛城〟名が残っています。
宝満山弘有の会より引用
ただ、筑前には笠置山もあり、どうもこの部分は変です。
筑紫葛城に対応するのは大和「笠置」ではなく「葛城」ではないかと思い、大和葛城山の周囲を地図で見てみました。
すると「有智・五條・千早」と言った地名がありました。
「有智・五條」は太宰府市に、「千早」は福岡市に同地名があります。
もしかすると、「大和の笠置の山々」の部分は「大和の葛城の山々」の誤植でしょうか。
筑紫の葛城が大和の葛城に遷ったとする方が筋が通るような気がします。
この箇所は文脈に飛躍・混乱があるように感じました。
憶測に過ぎませんけれど。
いずれにせよ、文脈から獅子座のことを笠置星・葛城星というのは間違いなさそうです。
それで一つ思い当たるのが、宝満山の修験道のことを「獅子流」と言う事。
どうして「獅子流」だろうと思っていたのですが、もしかすると「葛城星=獅子座」から来ているのかもしれません。
なんて。(冗談です。)
そう思うとちょっと楽しいです。
毎年5月の第三日曜日が峯入り・採燈大護摩供。
今年は行けるかなぁ。
以上、地名にもなっている獅子座の別名の話でした。
追記
さらりと「怡土が日向の国と呼ばれていた」と書かれていますね。
三雲遺跡あたりから葛城山を見ていたのではないかと思いました。
これについては別の機会に。