萬葉集は八百萬やほよろず青人草あおひとぐさうたひの集大成

万葉集について興味深い記述がありました。

 大伴家持(七一八~七八五)が、太宰権帥だざいごんのそつ大伴旅人(六六五~七三一)と共に筑紫に在ったのは養老四(七二〇)年から天平二(七三〇)年の間であった。
 萬葉集二十巻を編簒したのは大伴家持と伝えられている。萬葉なる家集の題名の由来は、八百萬やほよろず青人草あおひとぐさうたひの集大成であったと説かれている。
 筑紫には大陸の帰化人租界人と多種多様の異邦人が同居していた。事あるごとに祖神の祭礼には氏族固有の歌曲を合唱していた。これを太宰府の官人たちは 〝つくしのあまのはらの、かたりのうた〟 と一括表現していた。これを略して萬葉なる表題をまとめあげたのである。

(『儺の國の星拾遺』p.126~p.127)

万葉集の原典は「つくしのあまのはらのかたりのうた」で、タイトルは

    八百萬やほよろず
    青人草あおひとぐさ
    うたひの集大成

ということだそうです。

〝あまのはら〟 とは舟に泊る氏族のむらのことであった。筑紫の西の多島海、即ち近東のAegeanエーゲであった。
(中略)
祖先は外来の文化も又日々の生活を進歩させる延命長寿のかてと考えていたのであった。

(『儺の國の星拾遺』p.128)

かつて玄界灘と有明海は繋がっていて、海で隔てられた西の方を「天原あまのはら島」と呼んでいた話を紹介したことがあります。(参考:Zuhr⑧ 長門石は宇佐島と天原島を結ぶところ

産業技術総合研究所地質情報総合センター海面上昇シミュレーションシステムに
nakagawaが書き込み

天原島は現在の肥前地方で、海面が高かった時代は島が多かったことでしょう。
それをエーゲ海に擬えたようです。

舟に泊まる人々というのは、近代になって急速に失われたという家船と言われるものでしょうか。

肥前だけでなく筑前にも、舟に泊まる人々がいたことをルイス・フロイスの書簡が伝えています。

筑前の海岸に沿うて博多を過ぎ、諸島の間に出た時、これまでかつて見たことのないものを見た。我等の乗ってゐた船の附近に六、七艘の小さい漁舟があったが、この舟は漁夫の家となり、妻子・犬猫・食物・衣服及び履物その他、家財一切を載せ、各舟には唯一人船尾に坐って櫂を頭上に漕いでゐたのである。

(『駒澤大学教育学研究論集 駒澤大学教育学研究論集 第32号』
「家船」の研究史/山本 敏子)より引用

今となっては想像するしかありませんが、玄界灘でもよく見られた光景だったのですね。

ブルネイにもカンポン・アイールと言う水上都市が有り、世界中にこういう人達がいたようです。

そういった人たちがたくさん日本に来ていて、「外来の文化も又日々の生活を進歩させる延命長寿のかてと考えていた」のですね。

それが「萬葉集」に反映されているのだそうです。

あり得る話ではないかと思いました。

話は変わりまして。

萬葉集というと、新元号にちなむ「梅花の宴」が話題となっています。
あの当時の大友旅人の境遇と気概、そして長屋王のことを思うと、「梅を愛でる風流な宴会」として語られることにモヤッとしていました。
そんなのんきな話ではないのだけれど、と。

けれど、萬葉集はそれだけではないのですね。
『儺の國の星拾遺』に書かれていることが本当だとすれば、多言語文化の集成でもあったのです。

だから一字一音の万葉仮名なのだと思いました。
(熟語だと民族によって読み方や意味が違いますから。漢字文化圏ではない言語を音訳するのにも便利ですしね。)

 
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