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Zuhr⑬ 中臣氏-それは欧亜を往来する民族が漢人に長く同化した系統かもしれない

*これは過去記事から中臣氏に関する記述を独立させ編集しなおしたものです。

シルクロードの中継地だった「楼蘭」が、漢の時代に「鄯善」と改称しています。

鄯善の場所を確認します。
次の図は、紀元前一世紀頃の西域諸国です。
地図では“楼蘭”表記になっていますが、同じ都市です。

Western Regions in The 1st century BC (ja).png
By トムル – Uploader makes it based on File:Asia 600ad 2.jpg, Public Domain, Link

発掘された遺跡から、交易によって栄えた都市国家だったことがわかっています。

その都市国家「鄯善」について『儺の國の星拾遺』にこのように書かれていました。

 昔、天山南路の中に鄯善(ぜんぜん)(前一三九~後六三五)なる國が栄えた。隊商の憩う街であった。
 欧亜を往来する民族を単于(せんう)という。後にこれが極東に定着する頃は燕(前一一二二~二二二)の世に入ってからのことであった。即ち故郷をもたぬ流浪の民族を漢人は単于北狄と一括した。あきらかに東人でもでもなければ西人でもない中間の民族の素性を表現した言葉が、単于であり鄯善(ぜんぜん)であった。
 漢人に長く同化した子孫を仲姜(ちうせう)という。察するにこの系統を倭人は中臣氏とよんでいたのかもしれない。その伝統が春分を元旦とするところからみるとScythai(スキタイ)人であったことだけは推定できる。

(『儺の國の星・拾遺』p.131)

鄯善(ぜんぜん)もしくは単于というのは、欧亜を往来する民族の呼称だというのです。
それが、燕の時代(周代に召公奭が封じられてから秦に滅ぼされるまでの間)に極東に定着したそうです。

燕の場所を戦国時代の地図で確認します。
時代によって勢力範囲が拡大したり縮小したりしていますが、「燕」の位置はこのあたりになります。
首都はけい(現在の北京)に置かれていました。

ZH-战国七雄地图.jpg
By Philg88投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

燕は斉と隣り合って渤海湾に面しています。
鄯善(楼蘭)からかなり離れていますね。
内陸から東へ東へと移動した結果海に行き当たり、足止めされてこの地に定着したようにも思えます。

その「漢人に長く同化した子孫」が中臣氏だというのですね。
漢人は「仲姜」といい、倭人は「中臣」と呼んだと書かれいます。
そうすると、「中臣」は「仲姜」の和訳ということでしょうか??

中臣氏が西域からやってきた渡来人で、春分元旦の風習を持ち獅子座を尊重する民族だとは、何とも不思議な話です。
(日向や豊前、伊豆や常陸の中臣氏も同じなのかはわかりませんが、筑前那珂川にいた中臣氏はどうやら渡来人らしいです。本当かなぁ。)

漢民族が楼蘭の民を「鄯善」と呼んだ由来と思われる部分です。

 獅子座を中東の古代帝国は利(刀)鎌に見たてていた。一切の罪悪を消滅する象徴であって、時には獅子神像、又時には修祓(しゅうばつ)拂子(はらひくし)となった。鎌を英語でsickle(シクル)、その古語はscythe(サイス)、独語でsensen(ゼンゼン)という。

(『儺の國の星・拾遺』p.130)

星空の見方に、目立つ星を繋いで「夏の大三角」などと言うことがありますね。
それと同じで、獅子座の頭の部分の星をつないで鎌に見立てる見方があります。
「獅子の大鎌」と言います。

この「鎌」を意味するドイツ語がsensen(ゼンゼン)であることから、獅子座を春分の星として尊重する人々を「鄯善(ぜんぜん)」と言ったのではないかと言うことです。

『儺の國の星拾遺』p.109では中臣氏のことを「羌人」とも表記しています。
羌人にせよ姜人にせよ、中臣氏のルーツは西方の人ということになりますね。
春分を元旦としていたことから、さらなるルーツはスキタイ人になるそう。
(別のページではフェニキア人と書かれていました。地中海~黒海付近と言うことでしょうか。)
ちなみに日本で四月を年度初めとするのが受け入れられているのも、春分元旦の風習が人々の心にあるからだそうです。

ちょっとこじつけ過ぎな気がしますが、こんな伝承があると言うことで紹介しました。

補足:
故郷を持たずアジアとヨーロッパを流浪する民族で思い出したのは、楼蘭から100kmほどのところにある小河墓遺跡に眠る人たちです。
ここは4000~3000 年前の青銅器時代の遺跡ですが、明らかに漢民族とは違う人たちが眠っています。
周代以前に欧亞を流浪していた氏族がいたという傍証になるのではないか、と思いました。
「楼蘭の美女」「シルクロード四千年の眠り」などで検索しても情報がいろいろ出てきます。

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