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倭人の夏至祭と北欧と

Midsommar_i_Vaxholm
夏至祭のポール(スウェーデン)
By Carles Tomás Martí (originally posted to Flickr as Midsommar i Vaxholm) [CC BY 2.0 ], via Wikimedia Commons

古代中国「殷」「周」「秦」の夏至祭りが(*   の名前になったという話の続きです。
(*星の名前:伽日良星(かひらぼし[さそり座シャウラ]・沙羅星(さらのほし[いて座カウスアウストラリス]のこと)

現在の私たちは特に夏至を祝うことはありません。
けれどこの風習はちゃんと残っている、と同じ作者の別の本に書かれていました。

長くなりますが、その部分を引用します。
(後ろの方に出てきますのでわかりやすいように太字にしました。それと、今回から縦書き文の引用は縦書きにしています。長文のため画面に収まっていない部分は、スクロールバーで移動するか、引用部分をつかんで((もしくは引用部分をタッチして))スワイプすると続きが出てきます。)

 深夜も太陽を仰ぐ事ができる北欧では、此の日を謳歌して種々の祭典が催された。W.Shakespeare(セークスピア(一、五六四~一、六一六)の作になる「真夏の夜の夢」がこれであり、F.Mendelsson(一、八〇九~一、八四七)によって曲を付された一節が結婚の祝宴に披露される所以である。
 倭人も昔は、部落の中央にある平地に石柱を建て、この影が最短となる五月に、一氏一族総出の団欒を行ったと傅へられるが、時移り、世変るにつれて、往時の石柱だけが起源不明のまゝ風雨に曝されて来た。これを日塚(ひづかと呼んだが、日の古音“く”・“き”が残った地方では鬼塚(きづか、或は首塚(くびづかと呼ばれて、戦乱の世の犠牲者の墓所と信じられてきた。那珂川にも山田唐原(とうのはる、市瀬大浦等に石塔(いしのとう或は石佛(いしぼとけと呼ばれる無銘の碑石が残っている。ところによっては立石、或は立神とも言ふ。大和高市飛鳥(たけちあすかでは酒匂石(さかわいしと言ふ。
 夏至の頃は田植えが上る。米稲の普及した縄文・弥生の頃から、北欧Ural(ウラルAltai(アルタイ民族の遺風であった盛夏の祭典は“さなぼり”なる仕事の終了の慰労の休日に置き換へられて来た。(『那珂川の歳時月例』真鍋大覚/那珂川町 p.27~p.28 太字はnakagawa)

北欧の話から始まるので唐突な印象を受けるかもしれませんが、周代の夏至の風習が直前に書かれていて、殷周秦の夏至祭りと連続した話題です。
伽比良星・沙羅星の話と矛盾せず、寧ろ補足するものだと思いました。
 
祭りの中心は集落の中心に立てられた石柱と書かれています。
また、“北欧Ural(ウラルAltai(アルタイ民族の遺風”であるとも。

北欧の夏至祭りなら現在も行われています。

町の広場で、夏至柱を立て、人々が手をつないで回りながら歌ったり、踊ったりする。民族衣装姿の人、花の冠をかぶる女性も多い。 (中略)当日の夜、結婚を願う女性が7種類の草花を枕の下において寝ると、恋がかなえられるという言い伝えもある。(ウィキペディアより)

夏至柱の周りで歌ったり踊ったりする・・・。
『儺の國の星拾遺』『那珂川の歳時月例』に書かれていることを彷彿とさせますね。
もしかするとこれが殷・周・秦の時代の「真夏の夜の舞踊」であり「夏至の日に老いも若きも相睦び相和す祭」の姿なのかもしれません。

中心は夏至柱。
かつては倭人の集落にもあり、いつしか忘れられてしまったもの。

そして祭りそのものは現在「さなぼり」になったというのです。

不思議な話です。
長くなるので一旦切ります。

この話、続きます。

追記
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過去記事で周の夏至祭りの漢字を間違えていました。
私はずっと「」の字を用いていましたが、『儺の國の星拾遺』を改めて見たら、この字は星の名前にだけ使われていて、夏至祭りの方は「祚」と書かれていました。(過去記事の方は訂正しています。)

実はここに来て、切り口を間違えてしまった事に気づきました。
後で全面的に書き換えますが、それまで元記事として掲載します。

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