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悠紀田と主基田は瀦水塘耕作の名残り

前記事で、水城は土地を有効利用した三毛作のための瀦水塘だったという伝承を紹介しました。

この耕作方法の名残りが現代にあるそうです。

天皇即位の大典に献上する新米を作る所を悠紀田ゆきでん及び主基田すきたと言う。昔の瀦水耕作時代の名残りである。悠紀田が上田うへたであって、〝ゆき〟は冬の間に降り積もった雪とその溶水湧水を瀦水するからである。主基田は下田すけた、即ち夏の間の水を受けけて熱水を貯るからである。

(『儺の國の星拾遺』p.40)

※私注
「塘」は原文ではです。フォントがないので「塘」で代用しています。

読み仮名や送り仮名が旧仮名遣いで書かれている部分があります。
現代仮名遣いは次の通りです。
上田うへた → 上田うえた
・貯る → 貯える

天皇の即位の大典(皇室典範では即位の礼の後の大嘗祭)の献上米を作る二つの田は瀦水塘耕作の名残りだというのです。

悠紀・主基についてウィキペディアから引用します。

大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官司の役人)が、その祭に供えるを出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の亀卜により卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれるのを原則とし、(以下略)

大嘗祭/ウィキペディア)

「悠紀・主基」とは、斎国いつきのくにとして占いで選ばれ、大嘗祭の献上米を出す国のことなのですね。
その悠紀国・主基国に設けられる神田が悠紀田・主基田ということになります。
ちなみに昭和天皇の時の主基田は福岡県早良郡脇山村(現・福岡市早良区)でした。

古代に瀦水塘の上流側と下流側で一年に二度稲を収穫したことを、「悠紀・主基」で表しているということのようです。

大嘗祭では悠紀殿と主基殿それぞれで神饌を神にお供えし、またご自身もお召しになります。
このことも、下田すきたで早稲、上田うえたで晩生、と年に二度収穫する様子を表しているのかもしれませんね。

なぜ悠紀が東日本から、主基が西日本から選ばれるのかはわかりませんけれど。
(その間の事情は書かれていないので、別の歴史があるようです。)

このように、『儺の國の星・拾遺』には、宮中行事に残っている古代の風習や言葉に関する話がしばしば登場します。

例えば、賢所かしこどころは琉球の観星台(グスク)の女房詞だと言う話や、新嘗祭・大嘗祭の白酒・黒酒しろき・くろきの話などなど。

「えっ」と思うことがほとんどですが、この本を読んでいると、日本列島にやってきた人々の祭祀や歴史が縒り合わさって、行事や言葉に残されているのかもしれない、とも思います。まるでタイムカプセルのように。

折しも今年は大嘗祭(律令風に言えば践祚大嘗祭)が行われますね。

殆どの人が耕作をしなくなった現代、祈りの姿が変わらずあることに感謝と安堵に似た気持ちを覚えます。

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