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Zuhr⑫ 中大兄皇子と仲臣鎌子 

過去記事で、水城は筑紫國造磐井が造った瀦水(*注)だという伝承を紹介しました。
(*注:「塘」の字は本文ではです。フォントがないので「塘」で代替しています。以下同。)

これまでは「実際に瀦水塘だったとしたら?」という点を見ていましたが、それとは別に気になっていることがあり、メモとして書いておこうと思います。

太宰府の前から玄界灘に至る広大な水城を中津、或は中大江(なかのおおえ)といった。天皇の名及び皇太子名にこれが流用されている。神代の昔は冲大瀛(なかのおほうみ)であった。中大兄皇子と仲臣鎌子の関係がよく察せられるところである。

(『儺の國の星・拾遺』p.130)

「中大兄皇子と仲臣鎌子の関係がよく察せられる」と書かれています。
ここだけ読むと中大兄皇子と仲臣鎌子が水城を介して繋がっている印象を受けます。

仲臣鎌子と言えば、後に中臣鎌足と改名し乙巳の変に関わった人物。
中大兄皇子と関係が深いのはその通りですが、彼は鎌足に改名する前に筑紫に居たことがあるというのでしょうか???
それとも筆者がわざわざ改名前の名前を使っているだけでしょうか。
(例えば夏目漱石のことを親しい人が金之助と言うように。)
鎌子から鎌足へ「改名」したというのは後世の解釈で、本来の名は“鎌”一文字、“子”や“足”は敬称というせつもありますので、鎌子と鎌足の違いにこだわる必要は無いのかもしれませんが。(参考:ウィキペディア)

また「中大兄皇子」という名前が水城の別称中大江(なかのおおえ)から来ているとすれば、水城を疎水式の湖にするまでは「葛城皇子」と呼ばれていたはず。
その事が何も書かれていませんね。
「葛城」は大和だけでなく筑紫*注にもある名称です。
筑紫とは関係ないということでしょうか。

中大兄皇子と仲臣鎌子の関係は日本の歴史に大きく関わっているのに、これ以上のことがわからないのが残念。
何かありそうなのですけれど、伝承が伝わっていないのか、敢えて黙して語らないのか。
(なんとなく後者の気がします。)

仲臣鎌子と言えばもう一人気になるのが、欽明帝の時代に物部尾輿と共に蘇我稲目に反対した排仏派の人物。
この人も「仲(中)臣鎌子」でした。

おそらくこの時の対立だと思いますが、こんな記述があります。

筑前に早良なる郡が置かれたのは曾我稲目(四六七~五七〇)の世からであった。(中略)稲目は伊儺面(いなめ)と書き、恰土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝二十一(五二七)年に出る筑紫國造磐井と共に雄略帝十七(四七三)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が(こう)じて欽明帝十三(五五二)年の佛像を巡っての対立に及んだのである。

(『儺の國の星拾遺』P.134)

蘇我稲目が早良を開拓したというのもびっくりですが、崇仏派と排仏派の対立は水利の紛争が(こう)じて起こったことだと書かれているのには唖然としました。いやまさか、です。

話の流れから、「神崎物部と那珂中臣」vs「蘇我稲目」の水争いは脊振の水源を巡る争いだと思われます。江戸時代にも「筑前」vs「肥前」で水争いがありました。
それが大和で仏教を巡る争いになってしまったとは。

それとも仏教を巡る争いの現場も脊振だったのでしょうか。
だとすると具体的にどこだったのでしょう。興味が尽きません。

欽明天皇は継体天皇の嫡男です。
水城を開いた磐井と継体天皇とは因縁がありますから、この時代のいろいろな出来事は筑紫と関わりが深いのかもしれません。
また、山口に欽明峠という地名と欽明寺というお寺があり、欽明天皇は筑紫に居たことがあるような伝承もあります。

『儺の國の星拾遺』p.134の引用文に書かれた地理関係はこうなっています。

怡土・早良・那珂・神埼の位置関係

稲目と言う名前については、「いと怡 土」と「なか那 珂」に面しているから「」「」「」というのだそうです。

(ほかに流星を稲目星と言う話もあります。)

不思議な話です。

追記:
『儺の國の星拾遺』p.237に、早良は継体帝(457-479)の頃新しく郡を創設したとありました。
その当時は、干潮で干潟になり満潮で舟が往来できるような場所で、湊だったようです。
さらに100年後の稲目の時代に陸地化していて、開拓が行われたのだろうと思いました。

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