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Zuhr⑩ 天智帝は磐井がひらいた水城なる瀦水塘を疎水式に船を通す湖にした

水城を中津、あるいは中大江なかのおおえと言った話の続きです。(前記事参照。)

現在水城跡として土塁が残っていますが、通説では博多湾側に水がためられていたことになっています。

けれど『儺の國の星・拾遺』によれば、博多湾側ではなく上流の太宰府側に水が蓄えられていたとのことです。

真偽は置いておいて、太宰府側に水を蓄えていたケースについて自分なりに考えてみました。

なお、水城の上流に貯水されていたとする説は、2011年に行われた水城に関するシンポジウムで九州大学の島谷幸宏先生が発表されています。
今回はこの時の資料「河川工学からみた水城」を参考にさせていただきました。

堤防の高さというのは、余裕高+越流時の水深+洪水(余水)吐の高さなのだそうです。
堤防の高さが九~十メートルで上部に洪水吐きがある場合、貯水位は六~七メートル程度と考えられるとのこと。(「河川工学からみた水城」より。)

水城跡の土塁の高さも、場所によって違いますが大体十メートル程です。
もし水が蓄えられていたとしたら水位は六~七メートルより若干高いくらいでしょうか。

そこで水城の土塁の高さに合わせ、5mピッチの等高線に沿って地図に青い色を塗ってみました。
満水になった水城

濃い青が5mの等高線、薄い青が10mの等高線で満水になったとした水城(中大江)の水面です。



この図を見ると、現在の土塁の高さで満水になったとしたら、筑紫野市二日市~紫付近まで水面が広がっています。

確かに大きな湖です。
「中津」「中大江」と呼ばれるのも頷けます。

天智天皇はさらにここを疎水式に船を通す湖にしたそうです。

天智帝(六六二~六七一)は、かつて筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)(四一八~五二八)がひらいた水城なる瀦水■(ちょすゐたう)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替える大工事をされた。

(『儺の國の星・拾遺』p.140)

注:「■」の字はフォントがありませんでした。という字です。

おそらく玄界灘と有明海を船で行き来できるようにしたのだと思います。
朝倉橘広庭宮に行くのにも便利ですから。

ただ、それには解決しなければならない標高差があります。

次の二つの図は、個人的に予想した航路図とその標高図です。

予想航路図
予想航路
(筑後川河口-宝満川-針摺-鷺田川-御笠川-水城-博多湾の大体のライン)

予想航路の断面
予想航路の断面 (標高)
わかりやすいように高さは拡大しています。

地形が現在と同じだったと仮定すると、筑紫野市針摺付近の標高が40mほどあり、舟でこれを越えなければなりません。

俯角はそれほどでもないのですが、素人考えではここを越えるには工夫が必要だと思いました。

その工夫が「船を通す湖」だったのではないかと考えます。

つまり、パナマ運河におけるガトゥン湖です。

高いところに湖があれば、そこから下流に水を流せます。
そこに閘門を設けることで船は上ってくることが出来ます。

パナマ運河の仕組みを解説した動画がありました。
おそらくこのようなことが必要だったと思われます。

閘門式の運河といえば、610年に隋の煬帝が完成させた京杭大運河を思い浮かべます。
610年と言えば天智帝が生まれる10年ほど前のこと、戦略的な運河の整備とその効果について当時伝わっていた可能性があるかもしれきせんね。

京杭大運河と水城の運河は規模が全く違いますが、閘門式運河の技術は普通に船越の方法としてあったのかもしれません。

例えば埼玉に小規模な閘門を備えた運河を見ることが出来ます。見沼通船堀です。(「みぬま」!筑紫の古代氏族水沼みぬま氏と同じ音。)

天智帝の頃も、こんな感じで博多湾から船が上ってきたのではないかと思いました。

水門に板を落として閉め、水位を上げて船を通す動画がありましたので紹介します。

船を通した場所は開堤部(御笠川)だったのでしょうか。
洗堰のような石敷遺構が発掘調査で見つかっています。
あるいは西門付近に船着き場のような遺構があるそうなので、そちらに何かあったかも??

と、ここまで書いて、またしても大事なことを忘れていたのに気づきました。

それは王城神社です。

王城神社縁起によれば、四王寺山に祀られていたのを天智天皇が現在地に祀ったのでした。

ということは、天智天皇の時代は王城神社は冠水していないことになります。

海面上昇シミュレーションで状況を見てみました。
王城神社が冠水しない水面ラインは次の通りです。
(王城神社周辺が輪中のように堤防で囲まれていれば別です。今回はそこまで考えませんでした。)

地形が現在と同じで、王城神社が当時陸地だったとすると、水面は最大で田中熊別の東西の陵あたりまでになります。
それでもかなり広い貯水池です。

ということは、当時有明海側から太宰府に上ってくる船はこの湖を利用することが出来なかったことになります。
田中熊別の陵あたりまでしか水がなかったなら、そこから針摺までは陸地だったはずですから。
しかも標高差20m程の上り坂です。
もっと高いところに水源がないと水路での移動は難しいと思います。

もし博多湾と有明海を水路で繋いだとしたら、針摺峠あたりを境に有明海側と博多湾側で別々の水源を利用した可能性がありますね。

針摺から有明海側を地図で見てみると、大きな川としては宝満川があります。
けれど筑紫野市常松付近で海抜29メートルほど、針摺峠は海抜40メートルありますのでもっと高いところでないと水を利用できません。
宝満川では針摺を越えられません。

さらに近辺を見てみました。
すると山口川がありました。
イオンモール筑紫野付近で海抜40メートルほど、これなら水を溜めて針摺をぎりぎり越えることが出来そうです。

以上より、有明海側から来る舟は、まず筑後川の河口から川を遡上して宝満川に入り、さらに山口川を利用して針摺を越えたのではないかと思われます。

山口川と鷺田川をつなぐ疎水があったか、ここも人工湖にして繋いだ、と想像しました。
パナマ運河におけるミラフローレス湖です。
や、標高から言うとこちらがガトゥン湖で水城がミラフローレス湖かな。

筑紫野市のJT工場あたりに調整池があり、そこから鷺田川まで水路が通っていたらこんな感じかなーと妄想したのが次の図です。

天智天皇が疎水式の運河に改修したというのはこういうことかもしれません。
王城神社が冠水していなかったのなら、針摺は運河で繋がれたと考えられますから。

以上、『儺の國の星・拾遺』『王城神社縁起』に書いてある通りだったと仮定し、また地形は現在と同じとして妄想を繰り広げてみました。

個人的な考えとして、この本に書いてある通りのことがあったとしたら、
水城の成り立ちは
「磐井の貯水塘→白村江の敗戦を受けて防塁に改造→疎水式運河に改築」
または
「磐井の貯水塘→7世紀の東アジア情勢を見越して疎水式運河に改築(百済滅亡も含む)→白村江の敗戦を受けて防塁に改造→疎水式運河として利用」
というところです。

参考
・「水城に1350年前の先端土木技術を読む
・「遺 跡 に”古 代 の 建 設 技 術”を 読 む~特 別 史 跡 ・水 城 を 中心 と して ~
・「河川工学からみた水城

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