海が陸に深く浸入していた時代、玄界灘と有明海は繋がっていました。
そのため北部九州は海峡で隔てられ、西の天原島と東の宇佐島で構成されていたとのことです。(前記事参照)

二つの島は現在の久留米市長門石付近で近接していました。
それで「取り次ぎ・あいだ」という意味の「なかて」から派生した名称「長門石」になったということでした。
さて、天原島と宇佐島が接近している部分はもう一カ所有ります。
それは筑紫野市針摺~太宰府市吉松付近です。
太宰府の前から玄界灘に至る広大な水城を中津、或は中大江といった。天皇の名及び皇太子名にこれが流用されている。神代の昔は冲大瀛であった。中大兄皇子と仲臣鎌子の関係がよく察せられるところである。
(『儺の國の星・拾遺』p.130)
おおよその位置を下の地図に ●で示しました。

「中津、或は中大江」という名称から、ここには大きな水面があったようです。
また、「なか」は「なかて」と同じような意味合いで、玄界灘と有明海の「あいだ・取り次ぎ」と言うことのようです。
しかも「天皇の名及び皇太子名にこれが流用されている」とのこと。
ちょっと信じられない話ですが、「なかつ」「なかのおおえ」の名を持つ人物というと、思い浮かぶのは
中大兄皇子は後の天智天皇ですから、水城に関わりがあるのはわかります。
(『日本書紀』天智天皇3年に「又於筑紫築大堤貯水名曰水城」の記述あり。)
中皇命は万葉集に登場する人物で、間人皇女説と斉明天皇説があるようです。
どちらにしても中大兄皇子の血縁者ですね。
このファミリーと筑紫には何かつながりがあるのでしょうか。
それが何かはわかりませんが。
また、「神代は冲大瀛であった」とのこと。
神代が具体的に西暦何年頃のことかわかりませんが、おそらく玄界灘と有明海が繋がっていた頃ではないかと思いました。この頃は海水面が高く、船が往来出来たのではないでしょうか。
冲大瀛と言う名称は「なかて」の意味合いがあるのだと思いました。(ほんとかな。)
この水城に関することが別のページにも書かれています。
天智帝(六六二~六七一)は、かつて筑紫の国造磐井(四一八~五二八)がひらいた水城なる瀦水畓を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切り替える大工事をされた。
(『儺の國の星・拾遺』p.140)
なんと、水城はもともと筑紫の国造磐井が開いた瀦水畓だというのです。今風に言えば灌漑用の人工ため池かダム湖といったところでしょうか。
これまでの内容を時系列に並べると
1、神代 冲大瀛(海水?)
2、筑紫国造磐井の時代 灌漑用の瀦水畓(淡水)
3、天智天皇の時代 疎水式に船を通す湖(淡水)
となります。
縄文海進時代には海だったところがだんだんと陸地になり、磐井の時代に貯水池となり、天智天皇がまた玄界灘と有明海をつなぐ水路を復活させた、ということのようです。
でもそんな事ってあるのでしょうか。
この話、もう少し続きます。
ここまで書いたところで、「中津」の名を持つ天皇がもう一人いらっしゃったことを思い出しました。
この方も筑紫にゆかりのある人物ですね。